「制作現場でもディレクターの意見が、そのまま通らなくなってきたような感じも見受けられましたね。ですから、明菜の意見というか、ツルの一声で当初の『ミッドナイト・フライト』のタイトルが『北ウイング』に変わったと聞いた時には妙に納得したものです」

「北ウイング」は、その後、カップリング曲(B面)として収録されていた「涙の形のイヤリング」(作詞=康珍化、作編曲=林哲司)を差し替えた別バージョンのシングル「北ウイング/リ・フ・レ・イ・ン」(八四年一二月一五日)が発売されたこともあって「最終的に一〇〇万枚以上を出荷する作品となった」(田中)という。それだけに、

「明菜のターニングポイントは、この『北ウイング』から『ミ・アモーレ』にかけての八四年だったように今更ながら思いますね。というのは『北ウィング』から、これまでの来生パターンと売野(雅勇)パターンに加えて、実質的に新たな作家陣が加わったことから一気に作品の幅が重層的になったんです。同時に、バブル期の世相を映すかのようにゴージャス性やリゾート感に包まれた作品が現れ始めたように思いますね。それは、その後の明菜の音楽制作にも大きな動きに繋がっていったと思っています」

 デビュー三年目。明菜にとっての新たな幕開けとなっていった――。

松田聖子対中森明菜
二大アイドルが真っ向勝負

 明菜の七枚目のシングル「北ウイング」は、オリコンのシングル・チャートでの一位は逃したものの、テレビのランキング番組「ザ・ベストテン」では向かうところ敵なしの快進撃だった。

 その一方で「北ウイング」が「松田聖子vs中森明菜の本格的な幕開けになった」と言うのは当時を知る音楽関係者だ。

「聖子は八〇年に山口百恵と入れ替わるようにデビューしたこともあって、当時、“ポスト百恵”として積極的にアピールしてきました。そこに彗星のごとく現れたのが八二年デビューの明菜でした。その時は、どちらかといったらまだ“ポスト百恵”の色合いの方が強く残っていましたが、それが『北ウイング』以降は“ポスト百恵”というレッテルが完全に外れ、聖子対明菜という八〇年代の二大アイドルの競争時代に突入していったのです」

 そうしたことも、明菜にとって「北ウイング」が「ターニングポイントになった」とのゆえんになっているのかもしれない。