しかし、転移は常に起きている
また、こうした転移の失敗は、学校教育に限定されない。
企業研修も同じように厳しい状況にあり、タイムズ・ミラー・トレーニング・グループの前会長ジョン・H・ゼンガーは、「トレーニングの効果について厳密に検証している研究者たちによれば、トレーニング後に明らかな変化を見つけるのは難しい」と記している。
転移が失敗しているという認識は、転移の研究と同じくらい長い歴史がある。
この問題に対する最初の批判は、心理学者のエドワード・ソーンダイクとロバート・ウッドワースが1901年に発表し、大きな影響を与えた論文「1つの精神機能の改善が他の機能の効率におよぼす影響(The Influence of Improvement in One Mental Function upon the Efficiency of Other Functions)」によってなされた。
その中で彼らは、当時の支配的な教育理論だった、いわゆる「形式陶冶論」を攻撃した。
形式陶冶論では、脳は筋肉に似ていて、記憶、注意、推論の全般に使える機能を備えており、そしてその「筋肉」を鍛えれば、鍛え方にかかわらず、全体的な学力の改善を実現できるとされていた。
人気のある「脳トレ」ゲームの多くもこの考え方を支持しており、認知的作業に関するトレーニングは、日常的な推論の力も向上させるという前提に立っている。
論文が発表されてから100年以上経つというのに、転移という概念の魅力によって、いまだに大勢の人々が聖杯を探しているのである。
しかし、希望がないわけではない。実証研究や教育機関では、十分な転移の効果を証明できないことが多いが、転移が存在しないわけではないのだ。
ウィルバート・マッキーチは、転移の歴史を振り返り、「転移は逆説的だ。ほしいときには手に入らないが、それは常に起きている」と指摘している。
比喩を使い、何かが別の何かに似ているというときはいつでも、知識を転移しているのだ。スケートで滑ることができて、それからローラーブレードを学ぶのであれば、その際にスキルの転移が行われる。ハスケルも指摘しているが、転移が本当に不可能であれば、人間は機能しなくなるだろう。
なぜ、このような食い違いが生じているのだろうか?
人間が機能するために転移が必要なのであれば、なぜ教育機関は十分な転移を実現するのに苦労しているのだろうか?
ハスケルはその主な理由として、知識が限られれば限られるほど、転移が難しくなる傾向があることを挙げている。
ある分野でより多くの知識と技能を獲得するにつれ、それらはより柔軟になり、それらを学習した狭い文脈の外で適用することが容易になるというのだ。
しかし私は、転移の問題について独自の仮説を掲げてみたい。
教育機関における学習は、目も当てられないほど間接的なのである。