地球誕生から何十億年もの間、この星はあまりにも過酷だった。激しく波立つ海、火山の噴火、大気の絶えまない変化。生命はあらゆる困難に直面しながら絶滅と進化を繰り返した。ホモ・サピエンスの拡散に至るまで生命はしぶとく生き続けてきた。「地球の誕生」から「サピエンスの絶滅、生命の絶滅」まで全歴史を一冊に凝縮した『超圧縮 地球生物全史』(王立協会科学図書賞[royal society science book prize 2022]受賞作)は、その奇跡の物語を描き出す。生命38億年の歴史を超圧縮したサイエンス書として、西成活裕氏(東京大学教授)「とんでもないスケールの本が出た! 奇跡と感動の連続で、本当に「読み終わりたくない」と思わせる数少ない本だ。」、ジャレド・ダイアモンド(『銃・病原菌・鉄』著者)「著者は万華鏡のように変化する生命のあり方をエキサイティングに描きだす。全人類が楽しめる本だ!」など、世界の第一人者からの書評などが相次いでいる。今回からは、著者ヘンリー・ジーが熊本大学で行った特別講義を連載でお届けする。(翻訳/竹内薫)

【世界の知性の白熱講義】世界的科学雑誌ネイチャーが「大切にしていること」とは?Photo: Adobe Stock

ネイチャーの求人広告との出会い

「どうやって『ネイチャー』の編集者になったのですか?」。

 私がよく聞かれる質問です。そんなときはいつも「ネイチャー誌の編集者になったのは、とても奇妙な経緯があったから」と答えています。

 本当に奇妙ないきさつがあったのです。それは、1987年12月のある金曜日のこと。私はまだ大学院生でした。

 ネイチャーの編集者の求人広告を見ると、「博士号を持っているか、まもなく取得見込みの方」と書いてありました。今でもそう書いてありますが、最近応募してくる人のほとんどは、人数が増えて競争が激しくなったので、もうポスドク(注:博士号を取得した後の任期制の研究者)をしているのが普通です。

ケンブリッジ大学で古生物学を研究

 でも、当時、私はケンブリッジ大学で博士課程を終えるところでした。私は古生物学を専門として、イギリスの氷河期の大型哺乳類を研究していました。しかし、困ったことに、他の人たちがやっている研究にも興味があり、それについて書きたいと思ったのです。

 そこで、研究職からジャーナリズムに転身することを考え始めました。そんなとき、同僚のひとりがネイチャーでジュニア・エディターのポジションがあると教えてくれたんです。

面接で不採用となる

 私は応募して面接を受けましたが、不採用でした。面接を担当したのは、何人かの幹部社員でした。当時のネイチャーは小さな会社で、とても小さなビルのワンフロアにいたんです。インターネットもウェブもない時代です。今でこそ、ネイチャーの名前を冠した雑誌は90誌ほどありますが、当時は1誌だけ。とても小さな組織でした。

 不採用になった私はケンブリッジに戻り、博士課程を修了しました。そして、お金が足りなくなったんです。12月が終わろうとしている頃でした。私は博士号を延長するための助成金を申請して、論文を書き上げられるようにしました。

 編集長のジョン・マドックスは、面接のときから私のことを気に入ってくれており、1987年12月11日、私はジョン・マドックスに呼ばれて会いに行きました。すると、「君に仕事をあげよう」と言われたのです。「いつから始めればいいんですか」と尋ねました。

 クリスマスの後か、春になると思っていたんですが、彼は「月曜の朝9時半からだ」と言いました(笑)。そのために突然、研究活動から離れることになったんです。

 そして、月曜日の朝、ジュニア・ニュースレポーターとしてネイチャーに出社しました。ジョン・マドックスから依頼されたのは、『ロンドン・タイムズ紙』のオピニオンページに科学コラムを書くこと。