ユニクロや今治タオルでおなじみのロゴやリブランディングはいかにして、成し遂げられたのか。デザインの力をつかってイノベーションを起こし続ける、クリエイティブディレクターの佐藤可士和氏の創造性について、京都大学経営管理大学院で「文化の経営学」を専門とする山内裕教授が対談を通じて紐解いていく。前後編の前編をお送りする。(構成:森旭彦)
国内のロードサイド店からニューヨークの「文化的エリート」へ
現在のユニクロの店舗数は、国内を海外が上回る。2022年8月には国内809店舗、海外1585店舗を数えた。いまはまさに順調満帆だが、海外進出は容易ではなかった。満を持して2006年のニューヨークのソーホーにグローバル旗艦店をオープンするにあたってのトータルディレクションを依頼されたのが、佐藤氏だった。
山内裕(以下、山内):ユニクロのブランディングは、どのように進めていったのでしょうか?
佐藤可士和(以下、佐藤):まず柳井正さんからいただいたお題は、ユニクロをグローバルブランドにしたいということでした。2006年当時のユニクロは、日本では十分に成功していました。小学校のクラスの3分の2の生徒がユニクロを着ているのでは? とまで言われ、自分の着ている服がユニクロだとバレるとみんなと被ってしまうので、「ユニバレ」なんて言葉が流行していたほどです。
僕がまず関わったのは、ニューヨークのソーホー店でした。このエリアは世界でもトップクラスのクリエイターや感度の高い人々が多いので、そこでまず、ファッション感度の高いソーホーのクリエイティブピープルに響くものをつくろうと考えていきました。
山内:つまりユニクロのリブランディングは「文化的エリート」、ニューヨークのアーティストやデザイナーに向けて行われたものだったんですね。もとは日本の国道沿いに多くの店があったユニクロに対し、どうしてそのようなアプローチをとったのでしょうか?
佐藤:グローバルブランドになるためには、まずニューヨークでの成功が非常に重要でした。そして日本のポップカルチャーの最先端がつまったものが東京からニューヨークに来た、という新鮮なイメージをまず察知して広めることができるのはニューヨークのアーティストやデザイナーといったクリエイティブな人たちだからです。その層をイメージターゲットとして設定しました。
まずブランディングとして「日本発」のブランドであることを基本戦略とし、その象徴として現代の「TOKYO」の文化を重要視していきました。もっとも当時のユニクロがニューヨークのトップクリエイターに受け入れられるかというと、かなりギャップがあるように見えるかもしれません。でも、ユニクロの服はとてもシンプルで、品質もいい。上手くコミュニケーションできれば、ものとしては世界で通用すると僕は思っていました。
重い日本ではなく、軽いTOKYOがクールだった
佐藤氏によるユニクロのキャンペーンは、「FROM TOKYO TO NEW YORK」だった。日本ではなく、「TOKYO」だ。これは2000年代当時、「TOKYO」が世界中の文化的エリートのイマジネーションの源泉であったことと不可分ではない。2003年公開のソフィア・コッポラ監督の『Lost in Translation』はそれを象徴する作品だった。作中で散りばめられているのは、東京の空虚なネオンサインに埋め尽くされた夜景や広告、軽薄な娯楽だ。
ユニクロのロゴと「FROM TOKYO TO NEW YORK」というメッセージがニューヨーク中に氾濫する状況を作り出した。
そこあるのは、重厚な日本文化が不在の、深みのない「TOKYO」である。同じ2003年に公開された『ラスト・サムライ』では伝統的な日本文化を重く表現したのに対して、『ロスト・イン・トランスレーション』はアメリカ人が日本文化を軽く表現したことが批判された。しかし、モノ自体に価値が感じられなくなった2000年代には、むしろ正統な文化を重く大事なものとして表現することが、カッコ悪く、エリート主義だったのだ。だから、小さな予算で作られたこの映画が、この時代を決定づける作品となった。
山内:そうして世界トップクラスのクリエイター、つまり「文化的エリート」が振り向くようなデザインとして可士和さんが生み出したのがカタカナのロゴでした。重い文化表現にオーセンティシティを感じなくなっていた文化的エリートの感覚や、日本語のセリフに字幕がつけられなかった『Lost in Translation』の世界観などがすべて結びついた上でユニクロのリブランディングが成立しているように思うのですが、どこまでロジカルに考えているのでしょうか? それとも感覚なのですか?
佐藤:基本は社会をよく見るのが仕事だと思っています。今の時代って何なのか、ずっと考えていますね。そしてなぜ評価されているのか、なぜ新しく見えるのかの構造を俯瞰して見て観察しています。デザインするときは、そこから逆算して実装しています。
たとえば『Lost in Translation』が生み出した社会現象は、ストリートがパワーを持ちだした時期と重なっています。ストリートがパワーを持った結果として、デニムのようなカジュアルな装いで高級ホテルに行くのが許されるようになり、ヴィンテージデニムが古着屋で100万円くらいで売られ、現代アーティストの村上隆さんがルイ・ヴィトンとコラボして世界的に話題となる、という社会的な変化が起きる。
それに僕は毎年、仕事やデザインアワードの審査などでニューヨーク、ロンドン、パリなどを訪問していて、現地のクリエイターの友人たちと交流してきました。2000年代のロンドンやニューヨークで、日本のポップカルチャーが、とてもクールに見られていた時期を目の前で見てきました。たとえば今、漫画やアニメは世界的に評価されているけれど、それの初期の頃の動きです。
こうした観察をしながら、仕事に活かしている、という感じです。
山内:「極度乾燥(しなさい)」という、変な日本語をつかったアパレルブランドSuperDryが同時期、2004年にロンドンで生まれます。変な英語の書かれたTシャツを着ている日本人を見ると、「カッコ悪い」、「間違いを直さなければ」と考える人が多かったと思います。しかし、当時のエリートは、それがカッコいいと主張したのですね。だから、変な日本語が書かれた服を着ることがクールだという、そんな時代の空気を捉えたブランドですよね。
佐藤:さらにデザインとして僕が注目していたのは「ザ・デザイナーズ・リパブリック」というイギリスのグラフィックデザインのチームでしたね。アップルのマッキントッシュによって「DTP(デスクトップパブリッシング)」が実現されました。今では当たり前ですが、パソコンのソフトウェアでグラフィックデザインができるようになって、デザインが誰でもどこでもできるものになった。革命的な出来事だったんです。そのカルチャーの最先端を走っていたのが、ザ・デザイナーズ・リパブリックです。90年代に彼らがカタカナをつかって、テクノやハウスのCDジャケットをつくっていたんです。デザイナーやアーティストなどのクリエイティブなコミュニティにいる、先端カルチャーに興味のある人たちは彼らの作品に注目していましたね。
こうした、90年代のクリエイティブシーンの最先端カルチャーをユニクロというマス・ブランドで再解釈するのがクールではないかと考えました。2006年ぐらいなら、世の中の多くの人々にも受け入れられるだろうという感覚がありました。また、実際にニューヨークにも行って、ソーホーのストリートに何があったらインパクトがあるかを考えました。そのときに、カタカナだなと確信しました。
山内:柳井さんの反応はどうだったんでしょうか?
佐藤:実は、提案した第一案は英語でした。最初はハードルが高すぎると思って、カタカナのロゴは第一案としてはお見せしなかったんです。なぜならカタカナのロゴは海外の人はカタカナだとわかっても読めないだろうと。僕たちが韓国語のハングルを見た時に、それはハングルだとわかるけど、読めないのと同じです。
山内:ユニクロほどのクライアントは、そうした攻めた案は採用しないと踏んだわけですね。
佐藤:すると、柳井さんは僕が説明するまでもなく、カタカナの案を見つけてこれがいいとおっしゃったんです。すごくショックでしたね(笑)。
実はカタカナのロゴっていうのは、ユニクロらしさを説明する上でとても理にかなっているんです。ユニクロは、アメリカのカジュアルファッションを日本的にアレンジして販売してきたブランドです。そしてカタカナというのは、海外の言葉や考え方を日本語に持ち込むときに使われるものです。だから実は、カタカナはユニクロの本質を表現する上でぴったりだったんですよ。そういうことを柳井さんは瞬時に見抜いていた。
ただただ、すごい判断をする方だと敬服しました。「実は僕もカタカナがいちばんいいと思ってた」なんて後で言うのもカッコ悪いですし(笑)。
後編に続く。後編では、ニーチェの「価値転換」に通じるといえる佐藤氏の手法について聞いていきます。佐藤氏自身は、「僕のブランディングは、クラスの友達をみんなから良く見えるようにするようなもの」と言う。