「自分と向き合う自由」から得られる学びの大切さ
学生時代に「あたりまえ」の壁を打ち破ろうとした学生は、就活で再び「あたりまえ」の現実に突き返される。学生たちは、まだまだ新卒一括採用がもたらす「あたりまえ」に縛られている。企業が決めたスケジュールに合わせて、一斉にリクルートスーツに身を包み、髪の毛を地色に戻す。留年や就職浪人に対するネガティブなイメージを植え付けられ、エントリーシートで落とされては自己イメージを低下させる。
就活の早期化は、学生たちから「自分にとっての普通」「自分らしい普通」を模索する時間を奪う。横浜市の小学校教員採用試験が3年次に前倒しになった。3年次といえば、まだ教職課程も半ばであり、教育実習にさえ行っていない学生がいる時期である。学生は、教育学を学び、教育実習を経験する中で、本当に自分は教員になりたいのか、教員に向いているのか、という自問自答をしながら成長していく。企業への就労を思い描いている学生も同様だろう。大学教育と学生の学びを犠牲にしてまで、「青田買い」的な姿勢が横行してよいのだろうか。
企業には、「優秀な人材」を他の企業に取られたくないという思いや、自企業に早く馴染んで「使える人材」になってほしいという思いがあるに違いない。しかし、学校在学中にしかできない学びもある。
私は神戸大学附属特別支援学校にも校長として勤務しているのだが、特別支援学校でも「学校在学中でしかできない学び」の重要性を実感している。
近年、特別支援学校(特に高等部)では、職業教育に特化したカリキュラムが組まれる傾向が強まっている。工場そのもののような設備をもち、決められた作業ができるようになることが目指される。長時間立ち続けることができるようになること、指示された作業を的確にこなすことができるようになること、集中力を切らさずにていねいな作業を持続することができるようになること、といった力が育成される。
そういった力が大切であることも確かである。しかし私には、「学校在学中でしかできない学び」を犠牲にしてまで取り組むことだろうか、という疑念が浮かぶ。自分なりに試行錯誤し挑戦しながら、自分が何者であり、他者とともにいかに生きるかを模索するためには、自分と向き合うことのできるゆとりが必要だ。学生や生徒として学校に守られて学ぶことが、そのゆとりを生み出す。神戸大学附属特別支援学校では、ものづくりの授業においてさえ、型どおりの作品ではなく、自分にとってしっくりする作品を追求する。
大学も特別支援学校も、若者たちが「自分と向き合う自由」から得られる学びを大切にしなければならない。これらの教育機関が挑んでいるのは、しつけや訓練だけでなく、未来の社会をつくる主体を育てる営みである。教育は、若者たちを社会に適応させるためだけにあるのではなく、若者たちそれぞれの価値の実現を通して新しい社会を創造していくためにもある。したがって、若者たちには、教えられたとおりの学びだけでなく、自分自身がいかに生きるかということと関わる主体的な学びが必要なのだ。
企業側にしても、これまでの「あたりまえ」に安住してはいられない時代になったはずだ。前述の飛田鞠さんに就活中の困りごとについて尋ねたところ、「自分が成長できる見通しを持つことのできるジョブ型採用を増やしてほしい」という返事があった。メンバーシップ型採用では、どのように自分の力を仕事に生かすことができ、また、その力を専門性にまで高めていくことができるのかの見通しを持つことができないのだという。飛田さんのような学生生活を送った延長にある就活であれば、そのような思いが生まれるのは当然だろう。
大学も企業も、若者たちが「自分にとっての普通」「自分らしい普通」の花を咲かせる過程を見守っていきたい。若者たちを育て見守ることによって、大学と企業の間に協働的な関係が生まれていくとよいと思う。「自分が成長できる見通しを持つことのできる採用を」という飛田さんの言葉に、大学と企業がそれぞれの持ち前を大事にしながら協働するためのヒントがあるように思う。「自分にとっての普通」「自分らしい普通」を探し当てた尖った人たちが、たどたどしいながらも、新しい時代を創っていくに違いないのだから。
挿画/ソノダナオミ