慣れ親しんだことが変わるとき、新しいことが生まれ…
多くの学生にとって、大学を4年間で卒業する「あたりまえ」は、崩れつつあるように思う。海外留学をした人、陶芸の修行に出た人、海外でのボランティア活動に従事した人、友だちや本や壁と対話しながら自分をじっくり見つめ直す時間をもった人など、大学生活を1年多く過ごすパターンも多様になった。その生き様の中に、彼・彼女たちなりの「自分らしい普通」が表れている。卒業までに4年以上かかるのはネガティブなことだという「あたりまえ」が崩れていく中で、学生それぞれの「自分らしい普通」に光が当たる。
慣れ親しんだことが変わるとき、新しいことが生まれている。そのことで思い出す私自身の経験がある。
私の職場である神戸大学人間発達環境学研究科の建物には、「アゴラ」というカフェがある。研究室に囲まれた小さなカフェだが、大阪湾が一望できる眺望ゆえに、学生たちから自然に「天空のカフェ」というキャッチコピーが出るようなカフェである。このカフェができたのは、2008年のことだった。研究科が山の中腹にあるために、教職員も学生も飲食の場所が少なくて困っていたところ、耐震改修をきっかけに学舎にカフェを創設することにしたのである。
そのカフェをどう運営するかという段になって、当時の研究科長からたまたま私が相談を受けた。ちょうど、商店街で開いているカフェを畳もうかと考えている知人がいた。その知人には脳性麻痺があった。私は、彼をリクルートして、「障がい者がサポートを受けながら運営するカフェにしたらどうか?」と管理職に提案した。そうして、提案が受け入れられてできたのがカフェ「アゴラ」だ。現在は、知的障がいのある女性2人が中心になって店の切り盛りをしている。
このカフェができたとき、教員や学生から多くの不満の声が私の耳に入ってきた。「障がいを見せびらかすのは差別だ」と言う人がいた。「アゴラ」には行かないと公言する教員もいた。それだけ、「アゴラ」の存在は、大学という場にとって「あたりまえ」ではなかったということだ。
しかし、そのような不満の声も徐々に消えていった。大学というところは4年もするとほとんどの学生が入れ替わる。新しく入学してきた学生からすると、すでに存在する「アゴラ」は「あたりまえ」のカフェなのだろう。むしろ、「アゴラ」がある私たちの大学を誇りに感じる学生も多くなっていった。
異質な他者を排除する大学のキャンパスが「あたりまえ」だった時代、学生たちが大学で出会うのは同質的な仲間集団であることが前提だった。しかしいまや、その気になれば、誰でもキャンパスの中で多様な人たちと出会うことができる。退職後の学び直しをしている経験豊富な社会人学生もいる。外国人留学生も多い。障がいのある学生や教職員もいる。そのような環境が、学生たちの世界を広げ、「あたりまえ」を変えていく。
多感な青年期にとって、コロナ禍は、「あたりまえ」が急激に変化していく体験でもあったに違いない。マスク姿が「あたりまえ」になってしまった日常、オンラインが「あたりまえ」になってしまった日常、ソーシャルディスタンスが「あたりまえ」になってしまった日常、そしてまた、脱コロナに向けて変化していく日常。慣れ親しんできたことが変化しえるという経験は、若者たちの不安の原因にもなるだろうし、同時に「自分にとっての普通」「自分らしい普通」を探すエネルギーも生み出しているのかもしれない。