理解できないのは
知識が足りていないから

 では「理解力」とは何か?

 理解力とは「知識の量」に支えられています。論理が理解できないのは「そこに使われている言葉の知識がない」のが原因であることがほとんど。理解ができないのは、多くの場合、知識が足りないからなのです。たとえば「雨が降りました。だから傘を買いました」という文章のロジックが理解できないという人はいないはずです。シンプルな順接です。

 でもこの文章は、実際にはいくつかの論理をスキップしています。ものすごく丁寧に論理をつなぐと「雨が降りました。今は傘を持っていなくて、濡れるのが嫌だから、濡れないために傘を買いました」となるでしょう。これが理解できるのは、「前提知識」が揃っているからです。この文章を理解できたあなたは、「雨」についての知識もあるし、「濡れたら嫌だな」という感覚も共有できているし、「傘は雨を防ぐためのツールだ」ということも知っています。

 現代文で、「小林秀雄の文章がわかりにくい」と言われることがあります。でもこれも知識があれば、ある程度わかるようになるものです。小林秀雄の文章は、まず語彙が現代のものと違いますよね。このような言葉の前提知識にズレがあって、さらに背景知識も不足しがち。そのせいで正確に捉えきれないから、現代の人にとっては難しく感じるのです。物事を理解できないのは「論理的思考力」が欠けているからではなく、単に「知識」の問題であることが多いのです。知識さえ身につければ、誰でもある程度は理解できるようになるはずです。

 傘が雨を防ぐツールだということを知らなかったら「雨が降りました。だから傘を買いました」という文章は理解できません。この「知識」を使うことによって、知らない言葉も推測することができます。たとえば、まったく英語ができない人でも「雨が降ったから、アンブレラを買ったんだよね」と言われたら「アンブレラは傘のことかな」と推測できます。