トヨタでは海外マーケティング担当
選手再挑戦を経てIT副社長に

 米コロラド州で生まれ育った56歳のホーバスHCは、ペンシルベニア州立大卒業後にNBAのヒューストン・ロケッツのトライアウトを受けるもかなわず、ポルトガルに渡ってプロ選手になった。

 しかし、なかなか環境になじめなかったなかで、トライアウトを実施していた日本リーグのトヨタ自動車ペイサーズ(現Bリーグ・アルバルク東京)の存在を知る。プロではなく社員選手になる日本独自の待遇を承知の上で、むしろ仕事との両立を進んで受け入れて90年に来日した。

 トヨタでは海外マーケティング部に所属。千代田区の東京オフィスで働きながら、日本リーグで1年目から4シーズン連続の得点王、2シーズン連続の3ポイントシュート王を獲得。日本で得た自信を糧に、94年には出場2試合ながらアトランタ・ホークスで念願のNBAプレーヤーになった。

 その後はアメリカの独立リーグでのプレーをへて、95年に再来日してトヨタへ復帰。この頃に初来日時に知り合った日本人女性と結婚し、一男一女を授かっている。

 トヨタで4年間プレーした後は、東芝レッドサンダース(現Bリーグ・川崎ブレイブサンダース)を経て33歳だった2000年に現役引退。一度は家族とともにアメリカへ帰国した。

 第二の人生を歩む上で、最初はアメリカ連邦捜査局(FBI)に応募した。しかし、同時多発テロ事件の余波で採用が見送られたホーバスHCは、携帯電話のアプリなどを制作するIT系のスタートアップ企業に就職した。約7年間勤務し、最後は副社長を務めた経験が現在に生きている。

「組織のマネジメントと指導のコーチングは、ほとんど同じものだと思っています。企業も代表もチームを作らなければいい仕事はできません。そして、しっかりとしたチームを作るには目標やルールを定めて、そのなかで個々がいい仕事をしていきましょう、となりますよね」

 こう振り返るホーバスHCが勤めたIT企業は、最初の頃は社員が10人に満たない小所帯だった。それでも顧客にはスポーツ専門チャンネルのESPNや小売業最大手のウォルマートなどが名を連ねていた。ホーバスHCは出世を果たしていく過程で、組織を規律正しく運営していくために「朝礼の遅刻厳禁」などのルールを設けた。

 副社長を辞めたのは、バスケットボールに抱き続けた愛が理由だった。WリーグのJXサンフラワーズ(現ENEOSサンフラワーズ)からアシスタントコーチ就任のオファーを受けて、10年に再び来日した。女子の指導に携わった経験はなかったが、挑戦したい思いの方が上回った。

 その後はサンフラワーズのHCや、女子代表のアシスタントコーチとしてキャリアを積んだホーバスHCは17年4月、前述した女子代表のHCを託される。受諾した直後に壮大な目標を設定した。

「東京五輪の決勝でアメリカと対戦して、金メダルを獲得する」

 ホーバスHCは「メディアを含めた多くの人たちは、信じなかったようですけど」と苦笑しながら当時を振り返る。しかし、東京五輪で女子代表は快進撃を演じ、決勝こそアメリカの徹底した対策の前に敗れたものの、日本中を驚かせる銀メダルを獲得した。