ホッブズ主義者なら、こう論じるだろう。この悲惨な状態から進歩があったとすれば、それはおよそ、まさにルソーが不満を抱いていた抑圧的機構――すなわち政府、裁判所、官僚機構、警察――のおかげであった、と。

 この考え方によれば、人間社会は人間の卑しい本能を集団で抑圧することで成り立っているのであり、多数の人間がおなじ場所で生活しているようなとき、そんな抑圧がいっそう必要になる。それゆえ、現代のホッブズ主義者は、以下のように主張することになろう。

 なるほど、人間は進化の歴史のほとんどを小集団というかたちで生存してきた。そしてその小集団は、主に子孫を残すという関心事を共有するおかげで、いっしょにやっていくことができた。

 ところが、このような集団も、けっして平等を土台としていたわけではない。ここにはつねに、「ボス男性」(アルファ・オス)であるリーダーが存在していた。ヒエラルキーと支配、そしてシニカルな利己主義が、つねに人間社会の基礎だったのだ。

 とはいえ、集団として短期的な本能よりも長期的な利益を優先するほうがじぶんたちの有利になる、もっと正確にいえば、最悪の衝動を経済のような社会的に有用な領域に限定し、それ以外の場所では禁じることを強制する法をつくることが、じぶんたちの有利になると学んできたのだ、云々。

 だが、これらの議論は、人類史の一般的な流れを説明するものとしては、

1、端的に真実ではない。
2、不吉なる政治的含意をもっている。
3、過去を必要以上に退屈なものにしている。

 考古学、人類学、そしてその他の関連分野で蓄積された証拠(エビデンス)は、おおよそ過去3万年のあいだに人類社会がどのように発展してきたかについて、まったくあたらしい切り口から照明を当ててきた。

 いま浮上しはじめている世界像がこれまでのものとどう異なっているか、ちょっとだけ紹介してみよう。農耕開始以前の人類社会が平等主義的な小集団にとどまっていなかったことは、いまやあきらかである。

 それどころか、農耕開始以前の狩猟採集民の世界は、大胆な社会的実験の世界でもあり、進化論のような貧しい抽象の提示するイメージより、政治形態のカーニヴァル・パレードこそふさわしいといった具合である。