かたや農耕も、それが私有財産の誕生のきっかけをつくったわけでも、不平等への不可逆的なステップを画したわけでもなかった。実際、最初の農耕共同体の多くは、身分やヒエラルキーから相対的に解放されていたのだ。
また、世界最古の都市の多くが、確固たる階級的区分を有していたどころか、強固なまでの平等主義にもとづいて組織されていた。権威主義的な統治者や野心的な戦士=政治家、あるいはボス然とした役人すらも必要としていなかったのだ。
このような論点にかかわる情報が、世界のあらゆる場所から寄せられている。その結果、世界中の研究者が民族誌や歴史資料をあたらしい見地から検証するようになった。まったく異なる世界史をつくりだすことのできる断片がいま、積み重なっているのだ。
農耕の発明がまず私有財産をもたらし、財産がそれを保護するための市民政府の必要をもたらすことを説明したうえで、ルソーはつぎのように述べている。
「すべての人は、じぶんの自由を確保するつもりで、みずからを縛る鎖に飛びついたのである。かれらは政治制度の利点を理解するだけの理性はそなえていたが、それがどんな危険をもたらすかを予測するだけの経験を積んではいなかった」。
ルソーの想像した自然状態は、なによりもこれを説明するための方法として設定されている。たしかに、自然状態という概念を発明したのはかれではない。
修辞の手段としての自然状態は、すでに1世紀前からヨーロッパの哲学で使用されていた。自然法論者が広く使っていたもので、推測の足場を与えることで、政府の起源に関心をもつすべての思想家(ロック、グロティウスなど)に、神のごとくふるまうことを可能にした。こうして、かれらは人類の初源の状態についておのおの独自の考えを開陳することになるのである。
ホッブズの「自然状態」はデタラメ
人間は弱者へのケアができる生き物
ホッブズも『リヴァイアサン』で、ほぼおなじことをやっている。人間社会の原初的な状態は、必然的に「万人の万人に対する戦争」Bellum omnium contra omnes である、としているのがそうだ。それを克服できるのは、絶対的な主権権力のみである。ホッブズは、そのような原初的状態でだれもが生活していた時代が実在したとはいっていない。