人が先史時代から教訓をえようとするとき、ほとんど例外なく、この種の問いに舞い戻ってくるのだ。

 なかでもなじみ深いのは、かつては無垢な状態で暮らしていた人間が、あるとき原罪によって汚染されてしまったという、キリスト教による解答である。人間は、神のごとき存在にならんと欲し、そのために罰を受けた。いまや堕落の状態にありながら、将来の救済を待ち望みながら生きている、といった具合だ。

 ジャン=ジャック・ルソーは、1754年に『人間不平等起源論』という著作を執筆したが、まさにこの著作のアップデート版の数々こそ、いまこのストーリーを普及させている主役である。

 むかしむかし、わたしたちが狩猟採集民だった頃。人類は、大人になっても子どものように無邪気な心をもち、小さな集団で生活していました。この小集団は、平等でした。なぜなら、まさにその集団がとても小規模だったからです。

 この幸福なありさまに終止符が打たれたのは、「農業革命」が起き、都市が出現したあとのことでした。これが「文明」と「国家」の先触れでした。「文明」や「国家」のもとで、文字による文献、科学、哲学があらわれました。

 と同時に、人間の生活におけるほとんどすべての悪があらわれました。つまり、家父長制、常備軍、大量殺戮、人生の大半を書類の作成に捧げるよう命じるいとわしい官僚たちなどなどです、と。

 もちろん、これはとても乱暴な単純化ではある。とはいえ、産業心理学者から革命的理論家までのだれもが、「しかし、もちろん人類は、その進化の歴史の大部分を10人か20人の集団で暮らしていた」とか「農業はおそらく人類の最悪のあやまちだった」などといった発言をするたびに、浮上してくる基本的ストーリーが、おおよそこれなのだ。

人類は文明によって抑圧されている?
その主張は正しいのか?

 1651年に公刊されたホッブズの『リヴァイアサン』は、多くの意味で、近代政治理論の基礎となった書物である。人間が利己的生物である以上、初源的自然状態での生活はけっして無垢なものではなく、「孤独でまずしく、つらく残忍でみじかい」もの――基本的には、万人が万人と争い合う戦争状態――であるはずだ。