しかし、終戦直後の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)が絶対的な権限を振るっており、その意向に逆らうことは誰にもできませんでした。それゆえ、派出婦会を生き残らせるためには異なるビジネスモデルの仮面を被るしかなかったのでしょう。
しかしそのために、本来派出婦会に所属して個人家庭に派遣されて働く家政婦が、個々の個人家庭に直接雇用されて働く者という位置づけに変わってしまい、その結果、労働基準法が適用されない家事使用人だとされてしまうことになったのです。労働基準法施行から75年後になって、労働基準法を作った人々にとって想定外の事態が発生することになった原因は、実にここにあったのです。
法律上の形式は変わったとはいえ、実際のビジネスモデルにはほとんど変わりはありませんでした。戦前来の派出婦会は看護婦・家政婦紹介所という名称でほぼ同様の事業を継続していったのです。看板には「職業紹介所」と謳っていながら、その実態は紹介所附属の寄宿舎に多くの家政婦を住まわせ、個人家庭からの注文を受けてその都度臨時的に派遣しては終わってすぐ戻ってくるというビジネスモデルであって、実態は限りなく労働者供給事業そのものであったといえます。
濱口桂一郎 著
冒頭で引用したドラマ『家政婦は見た!』では、石崎秋子は大沢家政婦紹介所に寝泊まりし、毎回紹介所に所属する家政婦たちがちゃぶ台を囲んで派遣先の噂話で盛り上がるシーンが流れていました。どこをどう見ても、たまたまやってきた求職者をその都度求人者に紹介しているだけの紹介所とは思えません。
家政婦を取り巻く法制は戦後75年間、誰もが承知していながら、誰もわざわざ指摘してこなかった「王様は裸」状態でした。それで、ものごとがうまく廻っているうちはいいのですが、今回の家政婦過労死裁判は、その矛盾をもののみごとに露呈してしまったというわけです。
過去100年間に及ぶ日本の労働法制の下、社会の片隅で家政婦たちは必死に生きてきました。戦後80年近くにわたって、労働法学者や労働関係者からまともに議論されることもなく放置されてきた家政婦たち。その歴史を広めることが私の小さな願いです。