職業訓練校の学生は、20代から50代までの社会人。全員がモチベーション高く参加しているわけではない。全国、どこに行っても最初は「シラーっとした雰囲気」だったという。

そこでひるんでいては、仕事にならない。宝槻は塾の講師や出前授業で鍛えた話術と教える技術をフル稼働させて、講義に臨んだ。笑いを取り、熱く語りかけ、ストーリーを伝える。子どもたちをその気にさせたスキルは、大人にも通じた。宝槻の講義は2週間あり、全国どこに行っても、その間に生徒たちは見違えるほど前向きになった。

最終日を終えた後の懇親会には、宝槻の周りに生徒の輪ができた。「先生、楽しかったよ!」「また会いましょう!」という言葉を聞きながら、宝槻は「大人だって変わるんだ!」という確かな自信を得た。

宝槻をスカウトした経営者の手腕もあり、職業訓練校はわずか2年でおよそ20校に増えていた。講師として高給をもらうようになり、やりがいも感じていたから、全国を巡る生活に不満はなかった。ところが想定外の出来事で、この職業訓練校ビジネスが消滅してしまう。

2011年3月11日に起きた、東日本大震災。この未曽有の災害によって、もともと厚生労働省から得ていた多額の補助金が復興に割り振られてしまった。補助金ありきのビジネスモデルだったため経営が成り立たなくなり、震災からわずか1年で全校が閉鎖されることになった。

「テストと受験対策の塾」からスタートした探究学舎

再び仕事を失った宝槻は、「一緒に塾を開こう」という父親からの誘いに乗ることに。2011年、東京・三鷹に学習塾「探究学舎」を開いた。

これは決して前向きな決断ではなかった。妻からは「ヤスくんがやりたいことをやるべきでしょ? それは塾なの?」と問われた。しかし、新たに資金調達するのは難しいし、補助金に頼るビジネスは怖い。これまでの経験と貯金、自分の身体ひとつでできる仕事を考えたら、塾を開くという選択肢しか思い浮かばなかったのだ。

資金に余裕がなかった宝槻は、「変わった塾開校」というインパクトのある白黒のチラシを作り、新聞の折り込み広告を出した。問い合わせをしてきた人は全員塾に入ってもらうという意気込みで、父親とふたりで対応した。

塾が始まると、磨き抜かれたトークがさく裂し、あっという間に子どもと親を魅了。開校して3カ月には生徒数40人、1年半後には100人を超えた。

塾の経営はひとまず軌道に乗ったが、気は晴れなかった。当初は小学生から高校生までを対象に、国語、算数(数学)、理科、社会、英語の5教科を教えていて、「成績向上」「受験合格」を掲げていた。もちろん、探究学習的なアプローチを織り交ぜていたものの、塾生と親は「テストの点数が上がる」ことを求めて通ってきている。その期待に応える授業をすることに集中できなかった。