バーで朝方まで過ごした帰り道。同じように自宅の300メートルほど前で原付バイクを止めて、自宅まで押す。そーっと家に入り、誰も起こさず自室にたどり着いたのは朝4時。「今日も楽しかったな」と眠りについた。

親に怒られてまでバーに通い続けたのは、「大人の世界」が刺激的だったというよりも、そこに居場所があったからだ。

「僕はバーの仲間にフラワーって呼ばれていたんですけど、一緒に昼間にサッカーをしたり、買い物に行ったり、映画を観たりするようになりました。高校を中退したことも含めて、みんなが僕のことを認めて、仲間に入れてくれたから、穴が空きそうだった心をすごく潤してもらった感じがあります。そこに青春がありましたよね」

父が開いた塾「プラトン学園」から京大へ

宝槻は大学検定取得のために通信制の高校に通っていて、バーに通っていたのは高校2年生の7月から年末まで。年が明けてからは、一気に受験モードに切り替えた。高校を辞めた時、父親と「京都大学に入る」と約束していたのだ。バーの仲間たちも「ちゃんと勉強して、京大に行け」と応援してくれていたから、期待に応えたかった。

このタイミングで、父親が自宅を改装して塾を開いた。京大受験を控えた長男と、高校受験をしなかった次男を京大に入れるために、自ら勉強を教えようと立ち上がったのだ。

3人の息子のネットワークを駆使し、近隣の子どもたちを集めて始めたのが、「プラトン学園」。父親はこの時も、エーリッヒ・フロムの『自由からの闘争』の洋書を暗唱させたり、数学の公式が誕生した経緯を理解するために数学者の伝記を読ませたりと、独自の理論で教えた。

それが受験の役に立つのかと疑問に思う読者も多いだろうが、その効果は結果が表している。宝槻は京都大学経済学部に一発合格。その後、次男、三男も京大に進んだのである。

2000年、京大に入学。高校には求めていたものがなかった宝槻だが、京大は期待以上だった。

「入学したその日に、めっちゃかっこいい人とかわいい人がこんなにいんのか! と驚きました。ファッションもユーモアもセンスがキラキラしている先輩がたくさんいて、衝撃を受けましたね」

大学に入ってから最初の1、2年は慌ただしく過ぎた。宝槻家は岡山に引っ越し、そこでも塾を開いた父親から「手伝え」と言われたため、週末や夏休みなどに塾の講師を務めた。そこで教えていた女子高生と付き合うことになったこともあって、頻繁に岡山に帰るようになった。

父親の縁で知り合った、京都市立堀川高校の荒瀬克己校長(当時)にも惚れ込んだ。荒瀬氏は「すべては君の『知りたい』から始まる。」というメッセージを掲げ、子どもたちの好奇心に火をつける教育にかじを切って国公立大の合格者を30倍に増やした。その改革は「堀川の奇跡」とも呼ばれている。「自ら探究する心を育てること。そうすれば生徒は自然と学びだす」という荒瀬氏の教育論に心酔した宝槻は、堀川高校にも通った。荒瀬さんとの出会いが、探究学舎の原点になっている。