盛田昭夫
 1946年5月、戦後の焼け野原から生まれた東京通信工業(現ソニーグループ)を、グローバル企業へと育て上げた盛田昭夫(1921年1月26日~99年10月3日)。その国際感覚は、53年に3カ月にわたって米国やヨーロッパを歴訪した経験が大きなきっかけとなっている。この初めての長期海外出張で米ウエスタン・エレクトリックやオランダのフィリップスを歴訪し、盛田はトランジスタラジオで米国市場に打って出ることを決意した。

 アルファベット表記ができて、世界の誰でも発音できるブランド名として「SONY」を考案し、後に社名変更も行った。60年には、他の日系電機メーカーに先駆けて米ニューヨークに現地法人を立ち上げた。米国法人の社長に就任した盛田は、米国人と一緒に、米国メーカーと同じやり方で、ソニーが自ら販売活動に乗り出す方針を掲げた。

 こうした功績から、盛田は日本随一の「米国型経営」の論客としてメディアに担ぎ出されるようになる。当時の「ダイヤモンド」誌でも度々、米国から見た日本経営について語っている。日本の高度成長は終身雇用制、年功序列賃金という日本的経営が支えたという定説があるが、64年6月10日号の「ダイヤモンド」で盛田は、徹底した評価主義の米国企業に比べると「日本の会社は、極言すると、“営利団体”ではなくて、一種の“社会事業団体”だ」と舌鋒鋭く批判している。

 同様の主張は、このインタビューが掲載された2年後に出版された盛田による初の経営書『学歴無用論』(文藝春秋)でも展開し、同書はベストセラーとなった。米国では年齢や学歴など関係なく徹底した実力主義が貫かれていると、一見手放しで礼賛しているかに見えるが、盛田は決して単純な米国びいきの経営者ではない。86年には最年少で経団連副会長に就任し「財界の外務大臣」の異名を取り、日米貿易摩擦のさなかである89年には作家の石原慎太郎と共著で『「NO」と言える日本――新日米関係の方策』(光文社)を出版し、米国のビジネス手法を激しく糾弾した。

 何かにつけ「欧米では~、日本では~」と、海外と比較して日本を批判する人を「海外出羽守」と呼ぶが、盛田は決してその類ではなかった。常に是々非々で物事の本質を評価し、自分の言葉で語るところが“国際派経営者”たる評価のゆえんであろう。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

日本企業は社会事業団体
だから社員も重役も働かない

 日本の企業が、国際舞台に立って、激しい競争に勝ち抜いていくためには、会社の機構をもっと合理的な厳しいものに改める必要がある。

1964年6月10日号1964年6月10日号より

 このことは、前に「文芸春秋」にも書いたが、日本の会社は、極言すると、“営利団体”ではなくて、一種の“社会事業団体”だ。終身雇用制、年功序列型賃金というものが基本にあって、従業員は働かなくとも給料がもらえる。組合も、働かない者でも絶対クビにしてはいけないという。

 仕事と、社会保障をごっちゃにしている。

 仕事に対するエバリュエーション(評価)を基本にした米国に比べると、とんでもない悪平等だが、こうした古い習慣が今のご時勢に、平気でまかり通っている。

 日本のサラリーマンは、事なかれ主義に徹して、一つの会社に辛抱して勤めていれば、成績は上げなくても、年功で課長にもなれるし、部長にだってなれる。いわば、兵隊の位だ。だから、最後に定年などという制度が必要になってくる。働いても働かなくとも結果は大して変わらないという悪平等に、一つ大きな問題があると思う。

 このことは従業員だけではなく経営者にも通ずる。日本は重役天国といわれるが、重役はまるで神様だ。係長、課長、部長と兵隊の位が1段ずつ上がって、最後に重役、すなわち神様になる。神様にだんだん近づくのだから、働き方も自然に減ってくる。重役出勤などという言葉も、働かない重役の1つの表現だと思う。

 しかも、従業員と違って、重役には普通定年がない。会社の成績が悪くなっても、偉い神様・社長は、いつまでも社長の椅子にがんばっていられる。

 親会社のストックを販売会社に押し込んだり、赤字を隠したりすることは、朝飯前だから、成績は大丈夫、大丈夫と言って平気で社長に収まっていられる。その結果どうにもならなくなったときに、明くる日倒産などという、ばかげたことが起きる。

 ところが、米国では、こんな不合理なことは考えられない。従業員は、成績評価を基礎にして働くし、重役も取締役会から評価されるから、これまた一生懸命に働く。