真珠湾攻撃を裏で仕切った
元エリート軍人が始めた事業
何事も、創るより、残すほうが難しい――。企業もまた然り。
1941年12月8日。太平洋戦争開戦の日。ハワイ真珠湾沖から次の電報が発せられた。
「トラ・トラ・トラ……(われ、奇襲に成功せり)」
今では有名なこの電文を起案したのが海軍少佐・吉岡忠一だ。日米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃。その舞台裏を「昭和海軍のホープ」といわれた海軍中佐・源田実らと共に取り仕切ったことで、軍事界隈ではよくその名を知られている。音に聞こえた軍人だ。
だが成功裏に終わったこの真珠湾攻撃から4年後、敗戦により、吉岡はエリート軍人から一転、市井の人となって焦土と化した祖国へと復員した。
復員後、旧海軍とも縁深い神戸の地に居を構えた吉岡はビジネスの世界へと身を投じる。しかし、その前途は多難を極めた。かつての真珠湾の立役者、元海軍中佐も、いまだ戦後の混乱著しい時期、ビジネスという名の新たなる戦場では成す術もなかったのか。ついには家財の一切を失うまでに追い詰められた。
苦境のとき、どう振る舞うかが、その後の人生を左右することは言うまでもない。
吉岡が学んだ海軍兵学校の伝統を今に受け継ぐ、海上自衛隊幹部候補生学校の卒業生のひとりは、ここで学んだことのうち、軍事エリートとして最も大事だと思われることをこう語る。
「どんな状況でも、与えられた環境と人員で、必ず勝利へと導くこと。それが士官に課せられた最大の任務だ――」
真のエリートとは、たとえ逆境に立たされても、これを跳ね返し、結果を出す。軍人ではなくなったが、吉岡はやはりエリートだった。創意工夫により苦境を脱し、事業を軌道に乗せた。
その創意工夫とは、「待ち」の姿勢の商売から「攻め」の姿勢の商売への転換だ。