大河ドラマでは「貧乏貴族の娘」?
現実と異なるキャラ設定の紫式部
さて、この紫式部だが、ドラマでは貧乏貴族の娘という位置付けになりそうだが、父親の藤原為時は、花山天皇の側近で、越前や越後という大国の国司まで務めたし、夫の藤原宣孝は、太宰少弐や山城守だったのだから、相当豊かな生活が可能だったはずだ。
中臣鎌足が天智天皇から藤原姓をもらった後、子の不比等には4人の男子がいた。長男武智麻呂の南家は奈良時代に仲麻呂(恵美押勝)を出したが道鏡と争って没落。桓武天皇の頃には、三男宇合の式家が栄えたが、平安初期の嵯峨天皇の頃、次男房前の子孫に冬嗣が出て主流となった。
冬嗣の子のうち良房が摂関制の祖とされるが、男子がなかったので兄である長良の子・基経が養子になり、そのやしゃごが道長で、その子孫から五摂家が出ている。これが摂関家といわれる藤原本家である。紫式部の母も、基経の弟である清経の子孫である。
一方、良房の弟である良門の子孫は、醍醐天皇の母を出したからそこそこ栄えた。高藤はあまりさえない経歴の貴族だったが、『今昔物語』によれば、山科へ鷹狩りに出かけた際に雨宿りをした宇治郡司宮道弥益の家で、娘列子と一夜の契りをもって得た胤子が、源定省の妻となったという。
ところが、源定省の父がひょんなことから皇族に復帰して光孝天皇となり、定省も宇多天皇に、胤子の産んだ子が醍醐天皇となった。このことで一族に幸運が開け、高藤は内大臣に、その子の定方は右大臣になった。このあたりの経緯は、『源氏物語』において、光源氏が明石に隠せい中、明石の君に生まれた明石女御が中宮となるストーリーにヒントを与えた。
紫式部の夫宣孝は、その直系の子孫である。高藤の子の定方は、三条右大臣として知られ、小倉百人一首にも「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」という歌が収められている。
子の朝頼は従四位上・勘解由長官にとどまったが、孫の為輔は、尾張守や太宰権帥などを歴任し権中納言となっており、宣孝の父親だ。花山天皇の蔵人(侍従のようなもの)や筑前守、山城守、正五位下・右衛門権佐(皇宮警察幹部のようなもの)を歴任した。
紫式部の父である為時は、高藤の弟で従四位上・右近衛中将だった利基のひ孫である。利基の子の兼輔は、和歌・管弦に優れた文化サロンの中心人物で、鴨川堤に優雅な邸宅を建てたので「堤中納言」と呼ばれた。百人一首に「みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ」という歌が収められている。
その子の雅正も文化人で、従五位下・周防守だったが、前記の右大臣定方の娘を妻として生まれたのが為時だ。為時は花山天皇の家庭教師のような立場で、式部丞を務めたことがあるので、その娘であることが紫式部の名前の起源だ。
しかし、藤原道長の父兼家らが仕込んだ天皇の出家で為時も失脚して不遇が続いたが、道長に嘆願文を書いたのが功を奏して越前守となり、紫式部も同行して福井県の越前市に住んだ。紫式部は任期途中で単独で帰京し、かねて求婚されていた宣孝と結婚し、娘をもうけた。だが結婚後、わずか4年で宣孝は死去。「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」はその時の紫式部の歌である。
その後、未亡人となった紫式部は女房として出仕し、藤原道長の長女で一条天皇の中宮となる藤原彰子に仕えた。26歳の頃である。賢子(大弐三位)という娘が生まれたが、先述の通り、夫は結婚してから4年で亡くなった。また、父の為時は、その後、越後守として赴任している。
いずれにしても、為時や宣孝は、いまの政治家に例えれば、代議士を何期か務めた後知事に転じて2期ほど務めたとか、官僚に例えれば、本省の部長クラスから地方出先の長になってキャリアを終えたといったあたりで、貧乏貴族とはいえない。