彼は、そのときにジャニー喜多川と出会った。少年たちは怒られると思ったが、「こんなところで遊んでいると叱られるよ」と言われただけで、ハーシーのチョコレートさえもらえた。以後、中谷良はこの日系二世の青年と親しく付き合うようになり、近所の友達を引き連れて頻繁に出入りするようになった。ワシントン・ハイツには門番がいて厳しくチェックされたが、ジャニー喜多川の名前を伝えればすぐに入れてもらえたという(中谷良『ジャニーズの逆襲』データハウス、92頁―99頁)。

 朝鮮戦争から戻ったジャニー喜多川は、1953(昭和28)年ころから東京の子どもたちに野球を教えていた。当時の少年たちにとって野球とは、阿久悠が『瀬戸内少年野球団』で鮮やかに活写したように、新しい時代と「アメリカ」の到来を告げるものであり、映画やチョコレートや流行歌や民主主義と一緒になって生活のなかになだれ込んできたものだった。

 ジャニー喜多川は、立教大学のグラウンドを手始めに、東京各地の空き地に5人や8人程度の小さな少年野球チームを盛んに広めていった。所属する少年たちは1000人以上になり、1軍から4軍まである大所帯となった。

「あのころは私じしんも野球のことしか考えていませんでした。父が宣教師で子ども好きだった感化をうけて、野球のあいまに、ピンポンやスケートをやったり、英語を教えたり」(「チャキリスなんかに負けるもんか」『女学生の友』1964年4月)していたと取材に答えている。この少年野球チームの名前が、「ジャニーズ球団」だった。

 ジャニー喜多川の姉・メリー喜多川も野球少年たちの世話を焼いた。彼女は、東京・四谷3丁目の円通寺坂入口でスナック「スポット」を経営していた。スナックというアメリカ風のカウンター・バーのスタイルが目新しく、また、PXから流れてくるアメリカの輸入食品も客の関心を惹いた。