除隊後のジャニー喜多川は、在日アメリカ大使館で勤務することになった。当時の取材記事や関係者の回想のなかでしばしば記されていた彼の肩書は、在日米国軍事援助顧問団(MAAGJ)の職員というものであった(「ジャニーズはどうなる!?」『週刊明星』1964年9月27日、江木俊夫『ジャニー喜多川さんを知ってますか』KKベストセラーズ、22頁)。

 MAAGJは、日本の再軍備を推し進めた米国機関であった。なかでも、自衛隊、特に陸上自衛隊の創設主導が、この機関の主な任務であった。もっとも、彼は自衛隊創設に関する意思決定に携わる要職にあったわけではなく、通訳や事務などの職務に従事していたと考えられる。

 こうした大使館勤務の傍らで、彼は、プライヴェート・ビジネスとして、子どもたちに野球を指導していた。この野球少年たちが、後にジャニーズを結成することになったのである。ジャニー喜多川は、大使館の業務の傍ら、ジャニーズのマネージメントをするようになっていった。

ジャニーの名前を伝えれば
「アメリカ」にすぐ入れた

 ジャニー喜多川が暮らしたワシントン・ハイツは、1946(昭和21)年に着工、工事規模は約27万7000坪の敷地面積、礼拝堂、劇場、クラブハウス、小学校、PX(売店)などの施設、827戸の住宅という大規模なものだった。

 その住宅は、アメリカ人の生活様式に即して建てられた家屋「デペンデント・ハウス」だった。デペンデント・ハウスには、電気冷蔵庫や電気洗濯機など、当時の日本人には馴染みのない電気機器が備えられるなど、そのアメリカ式生活様式は、これからの日本社会の生活の理想像となった(小泉和子・高藪昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録(上)』住まいの図書館出版局、72頁―75頁)。

 後にジャニーズを結成することになる中谷良は、1958(昭和33)年、11歳だったころ、ワシントン・ハイツで友達とラジコン飛行機で遊んでいた。ワシントン・ハイツもオフリミットであり、日本人は原則的に立ち入り禁止だったが、こっそりフェンスを乗り越えるスリルも子どもには楽しみだった。