ジャニーズ帝国 最強ビジネスの終焉#14Photo:VCG/gettyimages、SANKEI

ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)は60年の歴史で、何度も苦境に見舞われてきた。米国育ちの姉弟は、いかにして巨大な“帝国”を築いたのか。特集『ジャニーズ帝国 最強ビジネスの終焉』(全16回)の#14では、ジャニーズを中心とする日本のエンターテイメント界を大年表を基に振り返る。(ダイヤモンド編集部 下本菜実)

「週刊ダイヤモンド」2023年11月18日号の第1特集を基に再編集。肩書や数値など情報は雑誌掲載時のもの。

故ジャニー氏と芸能界を繋いだ
昭和の大物歌手、美空ひばり

 13歳の美空ひばりが米ロサンゼルスで公演をしていなければ、“帝国”は存在しなかったかもしれない。

 戦前、カリフォルニア州には多くの日本人が移り住んだ。ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)の創業者、故ジャニー喜多川氏の父、喜多川諦道氏もその一人だ。高野山米国別院に僧侶として赴任し、ジャニー氏は米国と日本で幼少期を過ごした。

 ジャニー氏が日本の芸能界と初めて接点を持ったのは、1950年初夏のこと。美空ひばりが日系人への慰問のためロサンゼルスを訪れた際に、通訳や雑務を担ったのが、ジャニー氏と姉の故藤島メリー泰子氏だったのだ。

 62年に事務所を創設すると、姉弟は日本の芸能界ではあり得なかった「歌って踊れる男性歌手」を売り出していく。初期は「ジャリタレ」などとやゆされることも少なくなかったという。

 タレントとの関係も「家族」に近いものだった。寝食を共にし、ジャニー氏やメリー氏が自らタレントを仕事場まで送迎した。80年代に性加害を告発した元フォーリーブスの北公次は、自著『光GENJIへ』(データハウス)で、活動期間中に給与明細をもらったことはなく、欲しいものはメリー氏に小遣いをねだって買っていたことを明かしている。

 ジャニーズ事務所での過酷な活動に耐えかねて、電撃移籍を果たしたタレントもいた。スターだった郷ひろみだ。次ページでは、郷ひろみが綴った著書からわかる苦悩の日々のほか、SMAP分裂騒動の裏側といったジャニーズの60年の波瀾万丈の歴史を振り返る。また、ジャニーズを中心とする日本のエンターテイメント界の動きも大年表を基に紹介していく。

図_ジャニーズ事務所と芸能界での主な出来事(サンプル)