ミュージカル映画が運命を変えた
野球少年がアイドルを目指した理由

周東美材 著
1957(昭和32)年、小学生だった真家ひろみは、ジャニー喜多川に連れられて、このスナックでメリー喜多川の作るミートソース・スパゲッティを食べ、初めての味に感激したという。
しかも、店内には、力道山をはじめ野球選手、映画スター、人気歌手のおびただしい数のサインが並んでおり、子どもながらに華やかな芸能の世界を垣間見た(立花正太郎『ハイ!どうぞ』マガジンハウス、38頁―41頁)。TBSやフジテレビからも近いこの店で、メリー喜多川は、多くのテレビ関係者・業界人と会話を交わし、人脈を広げていったことであろう。
もっとも、ジャニーズ球団は、アイドルを目指して結成されたわけではなかった。アイドル・グループとしてのジャニーズが結成される直接のきっかけとなったのは、球団の少年たちがジャニー喜多川とともに丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」を観賞したときだった。
少年たちは、歌って踊れるアメリカの不良少年のミュージカルにすっかり魅了され、何度も映画館に通い、見様見真似でダンスを始めた。そのなかで、あおい輝彦、中谷良、飯野おさみ、真家ひろみの4人は、本気でミュージカルを上演することを夢見るようになっていった。ジャニーズは、ワシントン・ハイツという日本のなかのアメリカを母胎として、映画のなかの「アメリカ」に憧れて誕生したのである。
ジャニー喜多川は、豊島区雑司ヶ谷で名和太郎の運営していた新芸能学院に野球少年たちを紹介し、1962(昭和37)年1月、学院内に「芸研ジャニーズ」という児童部を設けることを勧めた。
ちょうどそのころは、ワシントン・ハイツが日本へと返還され、東京オリンピックの開催に向けて代々木選手村や国立代々木競技場へと造り変えられ、五輪国際放送のためにNHKが放送センターを建設するという転換期に重なっていた。こうしたメディアの変容のなかで、ジャニー喜多川もまた、米軍基地からテレビへと徐々にその活動の場を移していったのである。
そして、1995(平成7)年のV6以来、ジャニーズ・タレントはバレーボールの国際試合のサポーター役を務め、新グループとしてデビューしていった。多くの場合、彼らは国立代々木競技場のコートに上にいたのであり、この事実はつまり、かつてはワシントン・ハイツだったジャニーズ誕生の地に立つことを意味していたのである。