また、「昨日、XXご飯にそばを食べたの」という文でXXの部分が聞こえなかったとします。

 それでも、XXに「昼」を当てはめる人が多いのではないでしょうか?(少なくとも私の感覚では)「そば」は昼ご飯に食べる確率がもっとも高いからです。もちろん、右の文を発した人が大のそば好きで、朝も夜もそばを食べることを知っていれば、この推測は成り立ちませんので、XXの内容が推測できず聞き返してしまうかもしれません。

 ともあれ人間は、自分の過去の体験や自分が話し手に関して持っている知識を使って、 聞き取れなかった単語の意味を推測できる力を持っています。そのため、多少の曖昧性はコミュニケーションの問題にはならないことがほとんどです。

 ただし、例えば講演会などで、どの単語が発せられたのかを厳密に伝えたい場合、「化学」を「ばけがく」と読んだり、「市立」を「いちりつ」と読んだりと、曖昧性を解消することもあります。「言語には曖昧性がつきものであること」そして「曖昧性が問題となる場合、それを解消する方法があること」は知っておいて損はないかもしれません。

どうして授業をしてくれる人のことを先生というの?(みと)

 この質問もとても大事なものだと思いました。「先生」という呼び名は、何かを教えている人に対して使いますね。また、教えてくれる人だけでなく、自分に対して何かをしてくれる人、そして社会的に偉いとされている人(例えば弁護士・政治家・医師など)にも「先生」という呼称が使われます。よい解釈をすれば、これらの人たちは私たちを助けてくれたり、問題を解決してくれたりするので、尊敬の念をこめて「先生」と呼ぶのでしょう。

 しかし、現在の日本の教育の現場で、この慣習が障害になっていると感じることがないわけでもありません。「(偉い)先生」が「(偉くない)生徒」に教えるという一方通行な教育がなされがちになっている気がします。しかし、教える側も教えることで多くを学んでいますし、特に教わる側から質問や意見をもらうことで新たな考えや可能性が生まれてくることは、今回の特別授業からも明らかになったと思います。

 ちなみに、一方的なアメリカ文化の礼賛は好きではありませんが、アメリカの大学では先生のことを「名字+先生」ではなく名前で呼んでいましたし、私が教える側になった時も名前(=shigeto)で呼ばせていました。教えてくれる人に敬意を持って「先生」と呼ぶことに反対はしませんが、「学びの場では、先生も生徒も対等でありたい」という思いは、今回の特別授業をおこなってみて、さらに強く感じることになりました。