宮澤一族における主流ではなく
期待されていなかった岸田首相

 岸田家はもともと東広島市の農家だった。正記(岸田首相の祖父)の父である幾太郎が台湾の基隆に進出し、呉服店を経営した。その長男の正記は、京都帝国大学法学部で学び、大連で幾久屋百貨店を経営し、代議士にもなった。

 正記の妻である澄子は、代議士や広島市長をつとめた小田貫一の孫娘。正記と澄子の子である文武は通産官僚、俊輔は大蔵官僚(のちに中国銀行頭取)となった。また、文武の妻(岸田首相の母)は、佐賀県の唐津出身で三菱商事に勤め、日東製粉社長だった井口良二の娘である。

 岸田首相は、父が通産省から外務省に出向してニューヨーク・JETROに勤務していたときに米国の現地校に通っていた。そのため、英語は、流暢(りゅうちょう)とは言えないが、発音は良いとプロの通訳からも評価されている。

 帰国して公立の名門麹町中学を経て開成高校に入ったが、東京大学の入試には3度失敗。しばしばその経験について人生の挫折と語る。

 普通なら羨望されるような学歴だが、前述の通り、宮沢一族などの周辺の学歴のすごさに加え、宮澤元首相は「人と会うとまず学歴を聞く」といわれたような人物。岸田首相からすれば、相当に屈辱で肩身が狭かったようだ。

 なお、岸田首相の弟の武雄は、三菱商事勤務で、夫人の篤子は、ポテトチップスで有名な湖池屋の創業一族である。

 そのほか、岸田首相には妹が2人いて、どちらも、財務官僚と結婚している。岸田首相の父親は通産官僚だが、周囲にはむしろ財務官僚が多い。

 ここまで見てきたように、宮澤一族のなかでの主流ではなく、期待されてもいなかったという岸田首相の立場が、安倍元首相に見られたような「ぎらぎらとしたリーダーシップ」を発揮しないスタイルにつながっている。

元首相の亡き後も
変えない政治スタイル

 五年前の参議院議員選挙の際、岸田首相が次期総理を狙うなら、自民党票が旧民主党系の倍以上ある定数2人の広島選挙区で自民候補を2人立てて当選させるべきだといわれた。こうした中、自民党は現職の宏池会・溝手顕正に加え、河井案里を公認したが、岸田派が主導権をとる自民党広島県連は、河井にひどく非協力で、焦った河井陣営が本部に救援を求め、無理な選挙工作を展開した。

 ところが、最後の段階で岸田首相は安倍元首相とともに河井の選挙カーに乗り、結果、河井の票が伸びて溝手が落選。その怨念が、普通なら裏付け証言が取りにくいはずの河井の選挙違反摘発につながった。