「すべての科学研究は真実である」と考えるのは、あまりに無邪気だ――。
科学の「再現性の危機」をご存じだろうか。心理学、医学、経済学など幅広いジャンルで、過去の研究の再現に失敗する事例が多数報告されているのだ。
鉄壁の事実を報告したはずの「科学」が、一体なぜミスを犯すのか? 
そんな科学の不正・怠慢・バイアス・誇張が生じるしくみを多数の実例とともに解説しているのが、話題の新刊『Science Fictions あなたが知らない科学の真実』だ。
単なる科学批判ではなく、「科学の原則に沿って軌道修正する」ことを提唱する本書。
その中から今回は、世界的な名著『ファスト&スロー』にまつわる内容の一部を抜粋・編集して紹介する。

科学の真実Photo: Adobe Stock

世界的な心理学の名著『ファスト&スロー』

ここ10年で最も人気のある心理学の本と言えば、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』(邦訳・早川書房)だ。

人の心について、カーネマンほど優れた解説者はまずいない。人間の(非)合理性に関する研究で2002年にノーベル経済学賞を受賞し、私たちの推論能力の限界を示す創意に富んだ実験を数多く紹介してきた。『ファスト&スロー』は刊行直後から絶賛され、ミリオンセラーとなり、現在もよく売れている。それも当然だ。人間の思考に関するあらゆる間違いやバイアスを、生き生きと、美しく、語り尽くしているのだから。

カーネマンはこの本で、心理学者が「プライミング効果」と呼ぶ現象の研究について語っている。プライミングには言語に関係するものもある。

たとえば、コンピュータの画面に単語を1つずつ表示して、「スプーン」が出てきたらボタンを押すという実験をすると、前の単語が「フォーク」(または食器に関連する単語)の場合、「木」(または食器に関連がない単語)の場合よりわずかに早くボタンを押す。

「フォーク」という単語を見たことが心理的なプライム(先行刺激)になって、似た意味を持つ単語に素早く反応するのだ。

プライミング研究にある「再現性の危機」

このようなプライミング研究は、「自分の判断や選択は意識的かつ自律的であるという自己イメージを脅かす」と、カーネマンは指摘する。

彼はこれらの研究が健全なものであることを疑わなかった。「信じないという選択肢はない。結果はでっち上げられたものではなく、統計的な偶然の産物でもない。これらの研究の主な結論が真実であることは、受け入れるほかにない。さらに重要なのは、それらの結論が自分についてもまた、真実であると受け入れることだ」

一連のプライミング効果の研究は権威ある学術誌に掲載されたとはいえ、カーネマンほどの研究者が全面的に信頼するべきではなかったかもしれない。結果として、他の「再現性の危機」に深く関連する論文が発表されたことと並んでプライミング研究は──正確にはあるプライミング研究の再現を試みたことが、「再現性の危機」の最初のきっかけの1つになった。

「5000回以上も引用された研究」が再現できない?

元のプライミング研究では、参加者に単語のリストを見せて、余分だと思う単語を1つ除外した残りで文章を作るという実験をおこなっている。

その際、半分の参加者にはランダムに選んだ中立的な意味の単語のリストを、別の半分の参加者には「old, grey, wise, knits, Florida」など高齢者を連想させる単語を含むリストを与えた(フロリダはアメリカでも退職者の住民が多い)。
タスクを終えた参加者は自由に退室したが、その際、彼らには知らせずに、廊下を歩いて建物を出るスピードを計測した。

そして、ここでもまた、概念と行動のあいだに精神的なつながりがあることがわかった。高齢者に関連する言葉が先行刺激になった参加者は、対照群の参加者よりゆっくり歩いて帰ったのだ。
1996年に発表されたこの研究は5000回以上引用されており、心理学の教科書に必ずと言っていいほど登場する。私も学生時代に教わった。

しかし2012年。
ある独立系のグループが、より多くのサンプルと優れたテクノロジーを用いてまったく同じ実験を再現した。

その結果、歩く速さに違いは見られなかったのだ。