が、主税の邸に向かったは良いものの、主は邸にはいなかった。「登城しておらぬ」という家の者に対し「それは嘘であろう」といって、土足で上がりこみ、主税を探す刺客団。10代の主税の養子・虎熊(丹波山家藩主・谷播磨守からの養子)にも、居場所を尋ねるも「おりませぬ」との回答であった。主税の養子は縛りあげられて、主税の居場所を追及されたという。主税は、本当に邸にはいないということが分かり、彼らは城門の外で、主税を待ち受けることになった。

 森主税は、その夜は、森忠典(赤穂藩十代藩主)が主催する詩会に参加していた。詩会が終わり、主税は帰宅しようとするが、途中、二の丸門にさしかかる。主税が門を出ると、門番の者がすぐに門を閉めたという。そこに待ち受けていたのが、13人の暗殺者だった。主税は剣術の腕が優れていたが、さすがに多人数で襲撃されては堪らない。「城門の廓石を小楯」にして防ぐなどしたようだが、ついに首級を掻き切られてしまう。

 赤穂城の二の丸門跡には「かんかん石」と呼ばれる、2つの半畳ほどの石が置かれているが、この付近で、主税は斬られたとされる。二の丸門跡に赤穂義士会が設けた掲示板によると「小石を持って叩くと、かんかんという音をたてることから、誰言うとなく」そう呼ばれているとある。

 主税が門を出ると、すぐに門番により、門が閉められたのは、門番が刺客に籠絡されたからとの説もある(『速記録』)。以上が『速記録』に見る村上真輔・森主税暗殺の顛末である。

 森主税の掻き切られた首は、濱田豊吉(赤穂藩の下級藩士。尊攘派であった)らにより、桶に入れられて、大目付・宮地万之助の宅に運ばれた。宮地の家の戸を叩くと、取次の者が戸を開けた。濱田らは、森主税殺害の理由等を記した「上書」(斬奸状)と、首が入った桶を投げ込むようにして、そのまま立ち去った。一方、西川升吉らは用番・松本堅助の邸を訪れ、村上真輔の殺害趣意書を投げ込んで、逃亡した。