坂本龍馬像Photo:PIXTA

「尊皇攘夷」(=天皇を戴いて外国勢力を撃退する)のスローガンが日本中に広がっていた幕末。赤穂藩の藩政改革に燃える下級藩士・西川升吉は、尊攘の同志たちと語り合い、藩の中枢幹部を暗殺した。だがその過激な行動の裏には、同藩の権力闘争が横たわっていた。※本稿は、濱田浩一郎『仇討ちはいかに禁止されたか? 「日本最後の仇討ち」の実像』(星海社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

65歳の老人・村上真輔の邸で
赤穂藩下級藩士らは剣を抜いた

 文久2年(1862年)12月上旬、西川升吉と松本善治(共に赤穂藩の下級藩士)は上方を離れ、同年12月6日には赤穂に到着したと思われる。そして、その3日後の12月9日の夜、後世「文久事件」と呼称される暗殺事件が勃発する。『司法省日誌』(明治6年=1873年)には、村上真輔(赤穂藩譜代の家臣。赤穂藩の国家老・森主税の学問の師)の五男・村上行蔵の口書(供述を記録したもの)が掲載されているが、そこには文久事件についても言及されている。

 それによると、同日夜、升吉らは村上真輔の邸を訪問したという。升吉は、上洛するという名目で真輔に面会を要請したようだが、行蔵(村上行蔵。村上真輔の五男)に言わせればそれは「詐」(詐り)であった。

 応接間に現れた真輔。そこに5、6名の者が闖入し、いきなり真輔に切り付けた。物音に驚いた行蔵と六郎(真輔の六男。行蔵の弟)はすぐに応接間に駆け付けるも「狼藉人」の姿は既になかった。部屋にいたのは、顔をはじめ5、6箇所に深傷を負った父・真輔だった。真輔は倒れており、脈は少しあったものの、65歳の老人ということもあり、その夜のうちに命は尽きた。

 村上真輔殺害は、真輔の四男・四郎が「やみくもに、ところ構わず切ったのでございます。誠に心外でございます」(『史談会速記録』幕末維新に直面した志士など生存者の談話をまとめるために設立された史談会で語られた話を記録した本。全45巻、以下、『速記録』と略す)と憤るほど無惨なものであった。

 刺客は最初に2組に分かれていた。一組は西川升吉・八木源左衛門・松村茂平・松本善治・山下鋭三郎ら五名で村上家へ向かい、もう一組の青木彦四郎・西川邦治・山本隆也・高村広平・吉田宗平・濱田豊吉・田川運六・木村寅治ら8名は、森主税(赤穂藩の家老。村上真輔に儒学を師事していた)の邸に向かったのである。

赤穂城二の丸を出た国家老は
13人の暗殺者に首を奪われた

 村上家襲撃組は、真輔を仕留めると、そのまま、森主税の邸に向かったようだ。刺客らは合流する(『速記録』)。