自分が誰の転生だろうと
どうでもいいこと

 自分は誰かの転生だと語る人がいます。「自分は○○の生まれ変わりだ」というものですが、それがいったいどうしたというのでしょうか。まったく意味のないことです。

 かつてブッダだった人が今生も同格の人格として転生することはないように思います。もし、あるとすれば、魂を分霊するという方法をとるのかもしれません。

 過去世での人格がそのまま今生の人格として転生することはまずないように思います。まったく予期しない人物を転生で繰り返すのではないでしょうか。まったく同じか、また、よく似たような人物として転生することは、自然の摂理においても、ないように思います。インチキ占い師や霊能者によって判断されて、その気になっている人がいるとすれば、バカげた話です。

 自分が誰の転生であろうと、どうでもいいことです。わかったから、じゃあ、どうしようというのですか。意味のないことです。

 ここで、一つの疑問を持たれる方がおられるかもしれません。では、なぜ、人格の差があるのかということです。もし、輪廻転生がなければ、人類が一斉にスタートラインに並んで、よーいドン!でゴール(不退転)を目指します。しかし、現在、地球上の全人類は平等ではありません。

 人類が初めて誕生したときは、平等だったかもしれませんが、転生と輪廻を繰り返す中で、その人の魂に宿ったカルマによって、完成への途上で、カルマを積んだり、カルマを捨てたりの繰り返しで、徐々に人格の差ができるのではないかと思います。

 この世に肉体を持って生まれてきている人は、すべてが未完成の人ばかりです。だけど、完成すると、その人はもう生まれ変わる必要はありません。大方の人間が未完成で生まれて、完成を目指すのですが、なかなか完成しません。そして、未完のまま死にます。そこから転生して、来世に完成を目指すのですが、一回、二回の転生では、なかなか輪廻から脱却できません。だから、何十回、何百回もの転生の時間の中で「修行」をすることになるのです。