昨今の日本社会は、老人にシロクロをつけるよう求めがちだ。いわく、年相応に生きよ、遺族の迷惑にならぬよう終活せよ……。そんな風潮に対して、御年87歳の横尾忠則は、何を思うのか。※本稿は、横尾忠則『死後を生きる生き方』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
自分の目と鼻の先にある死
誰が死のうがショックはない
僕は老年期の真っただ中にいますから、当然かもしれないけれども、何となくではあっても、どうしても自分の生存時間を考えます。あと何年くらいなのかって。もしかしたら、来年か、再来年か。90歳まで生きるといっても、あと3年もないですからね。
そう考えると、やっぱり死というものが、目と鼻の先に迫ってきているという感じはあります。そこで、これは死と関係あるかどうかわからないけれども、ある意味で、自分から離れることも年齢とともにある程度できるようになるんです。
これまでは自分の個人的なことでがんじがらめになっていたり、あるいはそういったことから抜けられなくて、悩みを作ったりしていたのが、歳とともにそういうものが不必要になってくるんです。好奇心とか、社会的関心とか、個人の地位とか、名誉とか、財産とか……。そういった願望や執着がどうでもよくなってくるんです。
墓場には何一つ持っていけないですからね。もちろん、持っていけないことは若いころからわかっているんだけれども、現実に死が迫っていないから、そこまで真剣に考えないんですよ。ところが、87歳にもなってくると、やっぱりそれがすごい現実の問題になってくるんです。
最近は、友だちが死のうが、誰が死のうが、もう昔受けたほどのショックはないですね。あぁ、死んだか……という感じです。こちらが鈍くなってきたからなのか、それとも具体的な肉体の終わりが近づいてきたからなのかはわからないけれど、そんなに驚かなくなってきました。死は特別なものではない。万人に平等に与えられたものとして実感されてくるんですね。
白黒はっきりさせずに
曖昧に生きていたい
よく日本人は「年相応に生きなさい」みたいなことを言いますよね。
自分は自分なのに、自分らしく生きるよりも年相応であるべきという社会のルールは僕には何だかわかりません。だから、それに従えと言われても、その意味がわからないから従いようがない。やっぱり、自分の生き方に従うしかしょうがないと思うわけです。それが、他の人からは自由に見えたりしているのかもしれません。