死後のことを考える「終活」は
執着以外の何物でもない

 近年、人生の終わりを見越して行う「終活」なるものが巷間を賑わせています。死を前提にして、いろんなものを自分なりに整理し、残される家族にできるだけ迷惑をかけないようにする。つまり、不要な物を捨て、後で揉め事が起きないよう遺書を書く。

「終活」という活動はそういうことなんでしょうけれど、これも言ってみれば、年相応に生きるという“常識”から出てきたような言葉だと思います。もうこういう歳だから、生前整理しておこうよみたいな考え方ですね。

 自分のお葬式なんかでもね、僕は別に出してもらいたいとは思いません。けれど、遺族が出そうと思ったり、友だちが何かやろうと思ったり、そういうのだったら別にやってもいいとも思いますが、要するにどっちだっていいんです。だって、僕はそこにもういないんですから。

 死後のことまで全部いろいろと決めて、それで逝くってしんどい。死んでからもまだ、現世を自分の好みで支配するなんて執着以外の何物でもないでしょ。だから、僕は自分の葬式はまったく考えたこともありません。残った人間が何かやればいいわけですから。おそらくうちのかみさんも、大勢の人を集めた葬式みたいなことは何もしないでしょうね。内輪でひっそりやればいいんです。

 死んだらどうするかなんていうことは、閻魔大王、自分の中にいる閻魔大王が決めることで、誰かが決める問題じゃないと思います。全部、一番すべてをよく知っている自分の中の本体が決めるわけですから、厳しいといえば、厳しい。

 死はもちろん、悲しいです。だけど、ときには、死が笑いの対象になる瞬間もありますね。ある意味で、死って、滑稽なものかもわからないです。

三島由紀夫の市ヶ谷演説は
究極の遊びに見えた

 こういう話があります。

 以前、僕の高校のときの英語の先生が戦時中、軍隊にいたころの話をしてくれたことがあります。四列縦隊になって、タッタッタッタって歩いたときの逸話です。夜間の強行軍で皆、睡眠不足で疲れていたみたいで、うつらうつらしながら行軍していたんです。