身の回りにあふれているモノやコンテンツは、すべて誰かが作ったもの。世界は作られたもので満ちているが、それをただ受け止め消費するだけではつまらない。自分も作り手側に足を踏み入れれば、他人の仕事を見る視点や、あじわうポイントがきっと大きく変わるはずだ。※本稿は、漫画SNSサイト「コミチ」での漫画時評連載を集めた山本隆博『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
世界を当事者として見るか
能動的な第三者として見るか
享受する側から作る側にまわると、世界の解像度が上がる。たとえば、料理は食べるだけでもじゅうぶん楽しいのに、自分で料理をするようになるとプロセスや調味が想像できてもっと楽しいとか。
犬を飼いはじめたとたん犬を連れた人が目につくし、子どもが生まれてベビーカーを使うようになると街のバリアフリーが前景化する現象にも通じるものがある。
おそらく世界の解像度とは、世界を受動的に見るか能動的に見るか、あるいは当事者として見るか第三者として見るかのちがいに起因するのだ。
私だって、音楽を聴く側からやる側にスイッチしたら、音楽を構成する要素を聴き分けることができるようになったし、家電を使う側から製造する側になったら、冷蔵庫やテレビがどういう仕組みで動いているのかだいたいイメージできるようになった。
広告にまつわる仕事を続けていると、すっかりモノを買う側から売る側になってしまって、世の中に飛び交う売り言葉や買い言葉の背景におおよその察しがつく。
世界の解像度が上がると、見えなかったものが見えるようになる。だから中には、見たくなかった、知りたくなかったと吐き出してしまうものもある。
ただそういう裏事情やがっかりも含めて、その業界を見る私の視線はレイヤーを増すわけで、世界はいっそうの厚みをもって見えるだろう。なにかを作る側にまわるとなにかとしんどいことも増えるけど、自分を取り巻く世界が豊かになるのは間違いないと思う。
作り手になると世界の
見え方がガラリと変わる
そういえば、漫画を読んでいた人が漫画を描くようになると、以降は漫画の描き手目線でしか漫画を読めなくなるのだろうか。漫画を読むことなく漫画家になる人はまずいないだろうし、読む側から描く側にまわった時に見える世界はどんなものなのだろう。
いきなりデッサンを強制させられた時のように、それまで見えていた世界が、圧倒的に見えず描けないという絶望に反転したりするのだろうか。
とりわけテレビ番組や映画や写真といった、作り手によって映されたり切り取られたりした事象への眼差しは、漫画を読むだけだった頃からがらりと変わるにちがいない。
それにしても私たちはひとたび作る側へまわると、いかに世界は「作られたもの」に満ちているかがよくわかる。われわれが日頃から泣いたり笑ったりしながら享受する文化的なコンテンツは、もちろんすべてだれかの創作の賜物だ。