つまり私は、言いたいことの中から「言わないこと」を無数に選択する。言えと言われていることでも、迷うことなく言わない。そうやって私は「言う」を平気で伐採する。

 もし、伝える/伝わることが巷で話題にされる言語化の目的ならば、私は伝えるために、言語化しない部分を無慈悲に決めているのだろう。そうやって言語化すべきものごとを、ズカズカと軽くしているのだ。

心象や記憶を言語化するとき
人は自分の心を守ろうとする

 そもそも言語化とは、不思議な行為だ。いま盛んに語られる、マネジメントとかコミュニケーションの延長にある論とは別に、言語化には人間の内面を基盤から支える役割がある。

 自分の感情をどう把握し、自分の心象をどう表現するか、その営みの第一歩目になぜか「体系だった言語」が必要なことがよくわかる。

 心象を映像でそのまま受け渡すことができれば、おそらく自分の伝えたいことを過不足なく他者に伝えることはできるだろう。

 しかしそれを成し遂げた人はいまだかつていない。それができないから私たちは、自分の心象を言葉にして、相手に渡そうとする。幼い子どもが大人相手にいつももどかしそうにしているのは、自分の感情を手渡すための言語を持ちあわせていないからだろう。

 しかし言語化とは同時に、本来の伝えたい丸ごとを、言葉によって省略し抽象化し時間を圧縮することでもある。

 私たちが伝えるために伝えることを軽くし、ある程度の欠落を受け入れるのは、カメラで撮った4K映像を持て余して、ファイルを軽くしたり切り抜きにしたりキャプチャー画像にしたり、あげくテキストにまとめて送ることと、どこか似ている。

書影『スマホ片手に、しんどい夜に。』『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社)
山本隆博 著

 一方、自分の心象を言語化によって間引くことは、伝えるためだけが目的でないようにも思える。言語化は、自分の心を守ることにも使われているのではないか。

 自分の心象や記憶をあますことなく映像で記録していけば、早々に自分の容量が破綻するのは容易に想像できるだろう。

 ではなぜ人は言語化によって簡潔に心象や記憶を他者に伝えられるのに、わざわざフィクションや創作を交えて、物語や小説、漫画といった迂回する言語化を行うのだろう、という疑問もまた湧いてこないだろうか。

 それは人間のさらなる不思議な行為だと思うのだが、私にはまだそこを言語化できなさそうで、いつもぼんやり考えている。