斜面に広がる、おびただしい数の穴。まるでトルコのカッパドキアを思わせる奇妙な風景が、埼玉県にある。江戸時代から観光名所としてにぎわったという「吉見百穴」だ。これは一体何なのか?明治時代にはまことしやかにコロポックル(アイヌの伝承に残る小型の民族)の住居跡だと指摘されていたが、果たしてその正体は――。(フリーライター 友清哲)
明治20年、東大の教授が発掘調査に着手
「吉見百穴」について初めて本格的な調査が行なわれたのは、明治20(1887)年のことだ。
後に日本の人類学の先駆者として名をはせる坪井正五郎が、帝国大学(現東京大学)大学院の卒業論文の題材として発掘調査に着手したのがその端緒である。この時、周辺から人骨や土器類などが多数出土するなど、考古学的に大きな成果が得られたという。
岩壁に連なるおびただしい数の穴は古墳時代後期(6~7世紀)に掘られたもので、直径はいずれもおよそ1メートル。その数は今のところ219基とされているが、未発見の横穴が残っている可能性も指摘されている。
この吉見百穴が秀逸なのは、主だった穴が防護柵などで遮断されることなく開放されており、中に入れることである。しゃがんだ姿勢でくぐらなければならない入口のサイズと比べて内部は広く、成人男性が中腰で立てる程度の高さがあり、室内の形状は四角形や台形、円形などさまざまだ。
室内には10~20cmほどの段で囲われた、ベッドのようなスペースが1つもしくは2つ設えられていて、何やら生活感めいたものを感じさせる。
これは一体何なのか? 周辺に古代人の生活の痕跡が多数見つかっていることからすれば、当時何らかの目的をもって造られたものであるのは間違いないのだろう。しかし、住居とするにはサイズがあまりにも小さ過ぎるのだ。