スポンサーに忖度し続けた番組は
誰の得にもならないものになる
テレビ番組は誰に向けて作られるのか――と聞かれれば、どれだけ奇天烈な人でも「視聴者」に向けて作られると答えるでしょう。当たり前です。テレビ番組は視聴者のためにある。視聴者に有益な情報(もちろん「お得情報」ということに限らず、世界を知るのに必要な情報)や発見、笑い、関心、安心、感動などを届けるためにテレビ番組は作られます。ひいてはそれが社会のためになっているということが、テレビの存在意義を担保しています。その大前提の下に、テレビ局は総務省から貴重な電波を与えられているのです。言わずもがな、自局の利益だけを考えて番組作りをするようなテレビ局に電波を渡しておく必要はありません。それは国民にとっての損失だからです。
さて、テレビ番組は視聴者に向けて作られるべきですが、「営業枠」の番組においてはそうではなくなってしまうことがままあります。それがテレビの病の一つ「スポンサー第一主義」です。
もちろん、制作費や社員の給料を出してくれるスポンサー企業はとても重要な存在です。彼らを満足させることは命題の一つとなるでしょう。しかし、喜ばせるべきはどこまでいっても視聴者なのです。ここを誤り、番組の制作過程でスポンサーを喜ばせるための選択をしてしまうことがある。番組制作は選択の連続です。そのたびにスポンサーの意向に沿うように、もっと悪い時にはスポンサーへの忖度によって選択をしてしまう。その結果何が生まれるかと言えば、「視聴者が楽しめず、視聴者のためにもならない番組」です。
当然ながら、そんな番組が高い視聴率を取るわけはありません。もちろん、その結果はスポンサーにとっても残念なものでしょう。ここでタチが悪いのは、制作部はその結果を予見しているという点です。制作にあたっているのは番組制作のプロです。スポンサー企業の意向に沿った選択をするたび、「これじゃあ数字取れないんだよな」と思っているのです。それでも目の前の金主の顔色の方が重要になってしまい、最終的には誰の得にもならない結果になる。全くもってナンセンスな話ですが、テレビ局では笑ってしまうほど頻発しています。