顔の前で手を組む男性写真はイメージです Photo:PIXTA

先人に理想の老い方をしている人がいると、老後に対する不安も軽減される。著者は若かりし頃に出会った実業家・原安三郎氏のように老いたいと語る。その理由とは?本稿は、畑村洋太郎『80歳からの人生をそれなりに楽しむ 老いの失敗学』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。

理想の老い方をしていた
実業家・原安三郎氏

 かつて「こんな老い方をしたい」と思わせてくれた人がいました。日本化薬という会社の会長などを務めた実業家の原安三郎さん(故人)という方です。お会いしたのは私が大学院を修了して日立製作所という会社に入社したばかりの頃です。「これから社会人としてやっていくならぜひ会っておくべき」という大学時代の先輩の勧めで、一緒に訪問することになりました。

 あらためて調べてみたところ、原さんは明治17年(1884年)生まれなので、私が会ったのは80歳を少し越えたばかりの頃でした。ちょうどいまの私と同じくらいの年齢です。目の前の20代半ばの新入社員は、おそらく洟垂れ小僧にしか見えなかったでしょう。そんな相手に半日ほど時間を割いて、丁寧に接してくださいました。単なる気まぐれなのか、それとも私の顔を見てなにか感じるものがあったのか、いまとなっては確認することはできませんが、思い出す度に感謝の念が沸々と湧いてくる貴重な体験でした。

 残念ながらいまの私の中では、当時の記憶もだいぶ薄れています。こんなことなら記憶が鮮明なうちに記述しておけばよかったと後悔しています。唯一の救いは、過去の私の著書の中で、当時のエピソードに少しだけ触れていることです。まわりへの配慮から原さんの名前は出していませんが、魅力的な人柄や、貴重な教えを少しでも誰かに伝えられたのはよかったと思っています。

 そのとき本で紹介したエピソードはこんなものです。応接室に通されていきなり始まったやり取りは、「この部屋に来るのに階段を何段昇ったと思うか?」という唐突な質問をきっかけとする問答でした。私は当然、驚きましたが、すぐに自分の知識を総動員して考えました。そこは建物の二階でした。ワンフロアの高さはだいたい3メートルくらい、階段一段分の高さは20センチ程度と考えて、そこから計算して「だいたい15段くらいだと思います」と答えました。