「目指したのは地方国立大学の医学部です。正直、メチャクチャ難しいです。塾にカリキュラムを組んでもらったけど、私、そこまで頭がよくなかった。理系だけど、理数の成績は普通だったし、どう考えても医学部に行けるとは思えなかった。現役では普通に落ちて、母親に『無能、生きる価値がない、恥ずかしい子ども、生むんじゃなかった』と罵られ続けました。母親が医学部にこだわる理由は見栄のためだけで、親戚とか友だちに自慢したいからってだけ。浪人のときもメチャクチャ勉強はしたけど、最終的には医学部は諦めました」
医学部は難しいことを母親に伝えたとき、台所でお皿を割りながら大暴れした。私立大学は絶対にダメだと言われているので、国立の医学部以外の大学を探すことになった。最終的に地方国立大学の農学部に進学している。
「浪人時代から『お前にはお金がかかる。出会い系で客を探して売春してこい』とか、『ソープランドでアルバイトしろ』とか言われました。『女子高生って嘘をつけば、高く売れる』とか。受験を前にそんなことはできないので、暴力を振るわれながら適当に聞き流して大学進学で実家を出て、大学院まで行きました」
実家から出て6年目、大学院時代に両親は亡くなっている。健康状態が悪かった母親は父親が死んで数カ月後、摂食障害となって死んでしまった。母親からは「お前には裏切られ続けた。就職だけはまともな有名企業に行ってくれ」と言われていたが、就職したのは中小の食品メーカーだった。就職先を報告したらボロクソに言ったであろう母親は、もう死んでしまってこの世にいなかった。
「母親が毒親だと気づいたのは死んでからです。自分の家は暴力がすごいし、メチャクチャ厳しいとは思っていたけど、異常とまでは思っていませんでした。今となっては愛情はないけど、憎しみみたいなことまで抱かなかったのは、母親と私が共依存みたいな関係だったからなのかもしれません」
中村淳彦 著
晃子さんは給与も高くはなく、東京近郊で月5万円のアパートで暮らしながら、独身のまま39歳の年齢に至っている。社内の人間関係がこじれて精神疾患になってしまって、今は傷病手当をもらいながら休職中である。
「自分の人生がうまくいってるとはとても思えないです。なにが悪かったのか。どう間違ったのか。もしかしたら、B高校に進学したとき、母親に褒めてもらっていれば、もう少し豊かな人生になっていた気もするんです」
休職後、晃子さんは母親のことを思い出す機会が増えたという。