自分の妻に先立たれたあとを想像できる男性はどれほどいるだろうか。保険関係の書類はどこにあるのか、葬儀の段取りはどうすればいいか、これから自分はどうやって生きればいいのか……。他人事ではない「妻の死」とその後を考えていこう。本稿は、樋口裕一『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
音楽の趣味も政治思想も
正反対だった妻と夫
決して仲の良い夫婦ではなかった。行動をともにすることはほとんどなかった。家でも食事の前後にテレビを見ながら話をするくらいで、基本的には別の部屋で過ごした。
妻が元気だったころ、家族全員で話をしていた時、「夫婦は長く一緒にいるうちに似てくる」という話になった。今は亡き野球の野村監督夫妻などを例にしながら、語っていた。
「うちもそうかな?夫婦で似てるか?」と私が聞いてみたら、娘が即座に答えた。「お父さんとお母さんは似ようがない」。息子もそれに賛成した。
妻と私はどこからどこまでも正反対に近い。容姿もまったく異なるし、好みも異なる。
私はクラシック音楽、西洋文学を好み、書斎タイプで外に出るのが大嫌い。スポーツをするなんてとんでもないし、ハイキングなど絶対にしたくない。旅行をするなら海外旅行で、温泉旅行にはわざわざ行きたくない。
妻は大声でしゃべるが、私は小声でボソボソとしゃべる。政治的には基本的にはリベラル派で、右派的傾向の強い妻とはずいぶん異なる。何から何まで価値観が異なっていた。
身体の半分がもぎとられた感覚
妻の死後は何をしても悲しい
それでも、これまで何はともあれ妻がいたのに、その妻がいなくなってしまったというのは、精神的にこたえる。身体の半分がもぎとられたような気持ちになる。しかも、妻の死の直前の苦しむ姿を目の当たりにしている。たびたびそれがよみがえる。
部屋に入るごとに、そこに妻がいるような気がする。妻がいつも使っていた道具がそのままになっている。妻が最後にそれを使っていた時、妻はどんな気持ちだったのだろうかと思わざるを得ない。
風呂の掃除をする。妻の闘病中、私が掃除をすることが多かったが、私の掃除の仕方が雑だというので妻に強く叱られた時のことを思い出す。
何をするにも、妻が語ったことがよみがえる。掃除だけではない。妻がしていた家事をするごとにあれこれ思い出して、悲しい気持ちになる。
これからどうやって生きるのか
すべて崩れた老後の生活設計
妻の死によって私が漠然と思い描いていた老後の生活設計がすべて崩れてしまった。これからどうやって生きていけばよいのかわからない。いや、それ以前に、そんな先のことでなく、日々の生活で困ってしまう。