私は、しばしばコンサートに行くが、その時も、「そういえば、あの時、○○さんをこのあたりで見かけたが、数年前に亡くなったんだった」と思い出す。

「あのころはあの人は元気だったが、もう亡くなった」「あの人は癌で亡くなった」。そんなことが頭をよぎる。

「人は死ぬ」「誰もが死ぬ」「目の前のこの人も、そしてもちろん私も近いうちに死ぬ」。そのことが、リアルなものとして私に迫る。

 コンサートだけでなく、どこに行っても、何をしても、それが頭から離れない。友人にメールやLINEで連絡を取る。なかなか返事が来ない。「もしかして死んでいるのでは?」「また親しい人を亡くしたのではないか」という恐怖を覚える。

 もちろん、これまでそのような心配が実際に起こったことはほとんどないのだが、それでも恐怖を覚える。

 もちろん、妻の死後も楽しいことはたくさんある。うれしいことはたくさんある。孫と話すと幸せになる。音楽を聴くと感動する。旅行に行くと目を奪われる。気の合う人と一緒にいると楽しい思いをし、笑い転げる。

 だが、しばらくは心の奥底で死の音が鳴り続けていた。まるで通奏低音のように、私の心の奥底で常に死のメロディが鳴っていた。道を歩いていて、ふと自分が険しくて暗い表情をしていることに気づくことがあった。

書影『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)
樋口裕一 著

 フォーレは好きな作曲家の一人だ。あの清澄で心洗われるような『レクイエム』をはじめ、歌曲や室内楽にはしっとりとして内面的な美しい曲がたくさんある。以前は、フォーレを平気で聴いていた。大学に通う車の中でも聴くことがあった。

 ところが、妻の死後、フォーレを聴くとなんだか悲しみの中に沈潜してしまう気がする。フォーレの内面的な音楽の中の悲しみの部分に、そして自分自身の悲しみの核心に触れているような気がする。

 暗い気持ちになり、悲しみから逃れられなくなる。フォーレを聴くごとにそんな気持ちになるので、しばらくフォーレを聴くのをやめている時期があった。