ホテルで食事をしているとき、西洋料理というものは男が一人で食べていても、何とか様(さま)になる唯一の料理だな、と私は思った。これから自分が死ぬまでに食べる西洋料理の回数は増えそうであった。

「告知しないのが正解でしたよ」
妻を見つめてきた友人の一声

 部屋に引揚げてからは、近親や家内の親しい友人に電話を掛けて病状の急変を告げた。9月中旬に、主治医から本当の病名を知らせるよう指示されたとき、はじめて連絡した姪の一人は、次の日にはかならず病院に来ると約束してくれた。今は故人となっている慶子の姉の長女で、鎌倉に住む主婦である。

 9月にこの姪に本当のことを知らせたときには、私が鎌倉駅で偶然出逢ったことにして家内の手前を取りつくろったが、もう今度はそんな下手な嘘をつく必要もなくなってしまった。

 一方、慶應女子高以来の家内の親友、M夫人だけは、私以外ただ一人慶子の真の病名を知っていた。Y院長が、私の諒解の下にM夫人に打明けていたからである。

 この晩、私がいまだに告知の問題で悩みつづけていることを告白すると、M夫人は言下にいった。

「告知しないのが正解でしたよ。7、8年前、あなたが腰を痛めて、腫瘍の疑いがあるっていわれたことがあったでしょ。御存知なかったでしょうけれど、あのとき彼女、ほとんどパニック状態になったんだもの。表面は冷静で強そうに見えても、すぐ壊れてしまいそうな繊細なものを彼女はかかえているの。あなたが一番よく知っていらっしゃるようにね」

 M夫人の言葉に力を得たためか、私は深夜12時少し前には眠ってしまった。ところが熟睡して間もなく、枕許の電話が鳴ったのである。

「済生会病院の7階ナース・ステーションですが、江藤さんの御主人様でいらっしゃいますか?」

 ベテランらしい落着いた当直看護婦の声が流れて来た。

「……今すぐどうということはないと思うのですが、モニターを見ていますと、奥様の血圧が下がって、著しい徐脈になっていらっしゃいます。先生からお知らせするようにいわれましたので、こちらにお出でいただけますか?」

 デジタルの時計を見ると、午前2時を少し過ぎている。

「もちろんすぐうかがいます」

 と洋服に着替えて、ホテルを出たが、午前2時過ぎの横浜駅前は文字通りの不夜城で、宵の口と何の変りもないように見えた。小雨が降っていた。