次のことを考えてみたい。

 なぜ人ではなく、キャラクターが社会問題と闘う姿が描かれるのか。

 2匹のクマが闘っている相手は何なのか。

「よそ者」として捨てた
「わたし」と再会する映画

 このふたつの映画は、仕事漬けで頭がかたくなっている大人のロビンが、観客の男の子から「それはおかしいだろ」とツッコミを受ける、これまでよしとされていた「成長」の形がより未成熟とされる存在から「待った」をかけられる、そういうひとつの転換の必要性を教えてくれる映画だと思う。

 このふたつの映画から、何を受け取ることができるのだろう。

 プーとパディントンの「いきいき」していた姿は、彼らが単に人間から見て外部の架空のキャラクターとして描かれているんじゃなく、人間たちのある種の「分身」として捉えられ、それがいま再評価され活発化している、そういう裏側の構図から伝わってくる感覚なんじゃないか、と考えた。

 観客は、ふたつの映画が描く、どこかノスタルジックなロンドンの中で、この「昔のわたし」を思わせるクマたちと出会う。クマたちは、かつて人が「成長」の構図の中で自分自身から切り捨ててきた、人格の一部分なのかもしれない。

 これらの映画は、人がこれまで切り捨ててきた「何か」が、クマの姿でもう一度ぼくらに会いにきて、自己主張をし始める、そんな奇妙な映画に思えた。ここで問われているのは、自分が捨てたことにしていたぼくたち自身の中に息づく「よそ者」を、もう一度「わたし」の一部として受け入れられるかどうか、ということだと思う。

 ここで「昔のわたし」を「わたしの中のよそ者たち」と言い換えたい。

 このふたつの映画は、人が排除してきた、もしくは忘れてしまった「わたしの中のよそ者たち」との出会い直しを描き、また、これからはそういう「よそ者」の方にこそ主体性があるんだ、ということを告げる、新しいタイプの映画だと思う。

 こういう視点を持つと、他の映画についてこれまでと違った捉え方ができるようになるんじゃないか。

 最近は、LGBTQやエスニック・マイノリティ、障害を持つ人々を主要キャストに起用したり、エンタメ作品のジャンルにおいても社会的な問題をテーマにする映画やドラマが増えてきている。また、そうした動きと一見関係がなさそうでいて、水面下でつながっていると思えるのが、SF映画などで、エイリアンやロボット、クローン人間など、いわゆる“人間”の枠からはみ出る存在を主要人物に置く作品が出てきているということだ。