『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2013年)、『エクス・マキナ』(2014年)、『ジュラシック・ワールド 炎の王国』(2018年)などである。

 これらの映画もある意味では、人がこれまで排除してきた「わたしの中のよそ者たち」と出会い直すための映画として読み直すことができるんじゃないか。

成長の過程で排除してきた
「よそ者」の復権

 マイノリティを起用することや、主人公をいわゆる普通の人間とは違うキャラクターにするのは、単に人権に配慮して、とか、奇抜なアイデアで観客を呼び込めるから、そうしているだけではない気がする。プーとパディントンの姿からは、このような動きが起きていることのひとつの「根拠」が見えてくる。

 これまで当然視されていた映画の中の「主人公像」に照らし、切り捨ててきたいろいろな要素をもう一度「わたし」の中に取り込んでいく、ある種の「わたしの中のよそ者たち」の復権が行われているのではないか。

 以前、ぼくは日本で暮らしているときに感じる「働けない」感や「よそ者」感といったものについて、いまより不安を覚えることが多かった。それらは自分の中のよりもろい部分であるわけで、いつそれが社会から排除の対象にされるか分かったもんじゃないな、と。

 けれど、映画の中のプーとパディントンを見ると、そういう自分の中の前向きじゃない部分が、なぜか「いきいき」としたクマの姿になり、いま一度自分の前に戻ってきてくれた、というような不思議な頼もしさを感じる。クマたちは、もう排除されるだけのもろい存在じゃなくて、社会と闘うことを選び取ったんだな、と思うようになった。