今年もバッターとして大活躍中のドジャース・大谷翔平選手。彼の一挙手一投足に注目が集まりますが、そこから映画監督・西川美和さんが思いを馳せるのは……。国内外で高く評価される気鋭の映画監督であり、直木賞候補にもあがる名文筆家でもある西川さん。彼女が、映画製作にまつわるエピソードだけでなく、大好きなスポーツや日常の何気ない一コマを、鋭利かつユーモアあふれる視点でまとめた最新エッセイ集『ハコウマに乗って』(文藝春秋)より、「あさきゆめみて」(2023年5月)の項を抜粋・編集してご紹介します。
「大谷翔平」に再現性はあるか?
何が驚いたって、大谷翔平選手は一日に12時間寝るらしい。子ども時代の話ではなく、今も。
大の大人が12時間睡眠……ふつう、色々ムリ。でもあらゆる「ふつう」と「ムリ」をゆったりと払い除けながら未踏の地へ歩いていくのが大谷選手という人だった。ひょっとして彼は、あらゆる自信と立場を失ったこの国が最後の力を振り絞って産み落としたゴジラ、いやウルトラマンではないかと思えてくる。やがて沈む船に乗った私たちにもうしばらく夢を見せたら、あのやさしげな微笑みを浮かべつつ、遠い星へ還っていくのではないか――いや、そうではないと思いたい。健全な環境と質の良い睡眠さえあれば、大谷翔平はまた育つのだと。
私の働く映画界は、一日の労働時間を「原則13時間以内とする」というガイドラインを作り、この春から製作される(主に大手映画会社の)作品の現場環境の適正化を図ると発表した。
適正化して13時間? 一般の基準からは、首を傾げられると思う。
映画は深夜・早朝にしか撮影できない場面も多く、不規則な働き方をさせられるのは世界共通だが、欧米や韓国では労働時間や休日が厳しく定められ、働く人の人間的な生活は保証されている(例:フランスは一日8時間、韓国は週52時間厳守)。かたや日本の映画業界は、六~七割の人材がフリーランスで労働組合もなく、就労環境は無法地帯化してきた。スタッフと契約書もろくに交わさず、休みも定めず、朝から晩まで(ひどいときには朝から朝まで)彼らを寝ずに働かせながら乗り切ってきたわけだ。
あまり知られていないが、日本映画の収益の七割方は劇場と配給会社とに分配され、製作費は国内興行収入だけでは滅多に満額回収に至らず、現場で汗をかいたスタッフや俳優や監督には還元されない契約になっている。だから出資者は一円でも少ない予算で映画を撮らせようとするし、働き手は安くてきつい仕事でも請け負わずにいられない。
商売というものは儲からないなら店をたたむべきで、バカじゃないのと思われるかもしれないが、確かにこの業界の人は半分「バカ」なのだ。私のような監督やプロデューサーには「それでも作りたい」という性があり、スタッフにも「映画をやりたい」という性がある。このバカさ加減を「夢」や「やりがい」と呼ぶ傾向もあり、本人も周囲も夢のある仕事をしている錯覚を抱きながら、実際は家庭も持てなければ親の死に目にも会えず、睡眠不足でドロドロになって働いた挙句、行き着いたのは人材不足と若い人の離職だった。賢い彼らはもう振り向かない。映画もドラマも、まっぴらごめんだと。
「ふつう、色々ムリ」を超えた先に
ことのヤバさに気がついた経産省が「このままでは労基に刺されますよ」と圧力をかけた結果、東宝・松竹・東映・KADOKAWAの四社からなる日本映画製作者連盟が重たい腰を上げ、独立プロダクションの日本映画製作者協会と、監督や技術者の職能団体と手を組んで(いや、大喧嘩しながら)、環境改善や契約の正常化に向けた指針を出したのだ。
海外では8時間労働の規定が浸透しているのに、「13時間」という労働時間の規定に留まったのは、「そんな生産性じゃ映画なんて作れなくなる」と恐れる意見も多いからだ。就労時間を短くすれば、その分撮影日数は延び、機材費も人件費も膨らむ。すると「ヒットの見込めない作品には投資できない」と出資者の財布の紐はますます締まり、作家性の強い作品や重たいテーマの企画は通らなくなるだろう。
けれどこの国は、実はどこの国より豊富な種類の映画を作り、買い付け、観客にも提供してきた。『E.T.』もいいけど、同年公開のトリュフォーの『隣の女』もすてきだ。『南極物語』もすごいけど、『家族ゲーム』は一生もののショックを受ける。利益追求とリスクヘッジに傾けば、そのような「多様性」が失われかねない、ということ。だから働き手には今後も多少の犠牲は払ってもらうしかない、というのが各社の結論だろう。
悩ましい。私も寝ずに仕事をしてきたし、寝かさずに仕事をさせたこともある立場だから、労働条件の改善が自分の作品の首を絞めかねないという理屈はわかっているつもりだ。だけど経験として知っていることもある。朝は早くても夕方前に撮影を終え、温かいものを食べ、ちゃんと寝て、また翌日集合するようなスケジュールが組めた時、現場には揉め事やハラスメントは起こりづらく、素晴らしい結束感のもとに映画を作れるのだということも。「原則13時間、2週間に1日の休日、残業代なし」なんてレベルを「適正」と言って満足していたら、船は沈まずとも、船員たちはやがてより良い船に乗り移っていくだろう。
日本の現場で8時間労働は、「ふつう、色々ムリ」。誰も本気で論じようともしなかった夢のまた夢だ。けれどそこを突破してみれば、いつか新たなる超人が登場する可能性もあるかもしれない。大谷選手が愛する野球を存分に楽しみ、力を発揮できたように、未来の映画を担う人たちが花開けるように、少しでも長く眠れる生活と、安全な環境を求めていきたい。