1999年、若きイーロン・マスクと天才ピーター・ティールが、とある建物で偶然隣り同士に入居し、1つの「奇跡的な会社」をつくったことを知っているだろうか? 最初はわずか数人から始まったその会社ペイパルで出会った者たちはやがて、スペースXやテスラのみならず、YouTube、リンクトインを創業するなど、シリコンバレーを席巻していく。なぜそんなことが可能になったのか。
その驚くべき物語が書かれた全米ベストセラー『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』(ジミー・ソニ著、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社)がついに日本上陸。東浩紀氏が「自由とビジネスが両立した稀有な輝きが、ここにある」と評するなど注目の本書より、その壮絶な働き方に触れた前書きの一部を特別に公開する。

【衝撃】米ベンチャーの「日本とは違う」壮絶な働き方とは?Photo: Adobe Stock

「過酷な軍事作戦」のよう毎日

 イーロン・マスクは後年、ペイパルの創造は困難だったかと聞かれ、否定している。会社をつくるのは簡単だったが、「生かし続けるのが大変だった」とマスクは答えた。

 あれから20年後のいま、ペイパルはドットコムバブル時に生まれた企業にしては異例な勝利を手にしている──なにしろまだ存続し、大成功を収めているのだ。

 本書執筆時点でのペイパルの時価総額はほぼ3000億ドルと、いまや押しも押されもせぬ巨大企業である。

(ペイパルの前身である)X.comとコンフィニティの合併からペイパルのナスダック上場まではたった2年だが、多くの社員はこの時期に一生分働いたように感じている。クリエイティブだが過酷で容赦なく厳しい、混沌とした環境で揉まれたと語る社員も多い。

 ある社員は、入社初日にそれを思い知らされた。初めて自分の席に行くと、右には業務用サイズの頭痛薬の瓶が置かれていて、左では社員が電話で夫に怒鳴り散らしていた。「彼女は夫に叫んでいた。『今夜は帰れないのよ、つべこべ言わないで!』って」

 私がインタビューした社員は、このころの記憶には「もやがかかっている」と声を揃える──疲労困憊とアドレナリン、不安のもやだ。あるエンジニアはこの時期ほとんど睡眠を取れず、深夜に運転して帰る途中、車を1台ならず2台もぶつけてだめにした。あの集団は「過酷な軍事作戦を遂行する古参兵」のようだったと、CTO(最高技術責任者)は語った。

 それでも彼らは昔を懐かしんでいた。「ほんとに刺激的な日々だった」と事業開発責任者のエイミー・ロウ・クレメントは言う。「私たちはロケット船に乗っていたのに、その自覚はなかった」

 この時期に人生最高の仕事をしたと言う人たちもいた。品質保証アナリストのオクサナ・ウートンは「何か大きなものの一部になったように感じた。そんな気持ちになったのは初めてだった」と言う。「ペイパルを去ったさみしさを、いまもずっと噛みしめている」と不正アナリストのジェレミー・ロイバルは語る。

「数百人の人生」が交差し合うストーリー

 ペイパル社員の多くは、まわり道をしてこの会社にたどり着いたが、本書も同じようにして生まれた。私は以前、情報理論という分野の創始者にして20世紀の忘れられた天才である、故クロード・シャノン博士の伝記を執筆した際、シャノンが勤務したベル研究所について調べた。

 ベル研はベル電話会社の研究開発部門で、そこで働く科学者や技術者は6つのノーベル賞を受賞し、プッシュホンやレーザー、セルラーネットワーク、通信衛星、太陽電池、トランジスタなど、数々の発明を行ったことで知られる。

 そして私はベル研のような、人材の磁石のことを考えるようになった──ペイパルやジェネラル・マジック、フェアチャイルドセミコンダクターなどの技術系企業のほか、フュージティヴ派(詩人)、ブルームズベリー・グループ(芸術家・学者)、ソウルクエリアンズ(音楽)など、テクノロジーとは無縁の集団のことも。

 イギリスのミュージシャンでプロデューサーのブライアン・イーノは美大で学んでいたころ、ピカソ、カンディンスキー、レンブラントなどの個人が芸術革命を生み出したと教えられた。だがイーノはこうした革命家たちが、実は「多くの人々が織りなす豊穣なシーン」から生まれたことに気がついた。「芸術家、収集家、キュレーター、思想家、理論家──こういった人々が、才能の生態系のようなものをつくりあげていたんだ」

 イーノは彼らを「シーニアス」(ジーニアスとシーンをかけた造語)と呼ぶ。「シーニアスとは活動全体、集団全体の知性だ。文化について考えるときは、この概念のほうが役に立つと思うね」

 この概念は、ペイパルについて考えるのにも役立つ。ペイパルの物語は、消費者向けインターネットの草創期を舞台に、数百人の人生が交差し、影響を与え合った物語として理解するのがふさわしい。

 現代のテクノロジー物語は個人の、つまり「シーニアス」ではなく一人の「天才」の功績として語られがちだ。ジョブズはアップルの、ベゾスはアマゾンの、ゲイツはマイクロソフトの、ザッカーバーグはフェイスブックの物語と切っても切り離せない。

 だがペイパルの物語は違う。そこにはたった一人のヒーローやヒロインは存在しない

 その歴史のさまざまな瞬間に、さまざまなメンバーが、会社を救う重要な突破口を開いた。それらが一つでも欠けていたら、会社全体が破綻していたに違いない。

 またペイパルの重要な功績の多くは、集団の生産的な切磋琢磨から生まれた。プロダクト、エンジニアリング、営業の各チーム間のせめぎ合いが、珠玉のイノベーションを生み出した。

 初期の歴史は衝突と軋轢に満ちていたが、「本当の機能不全に陥らないように、お互いを個人的、感情的に害しないよう気をつけていた」とエンジニアのジェームズ・ホーガンは言う。

 ペイパルでは不協和音が発見を生み出した。この生態系を──当事者たちの生産的な融合を、彼らが立ち向かった困難を、立ち会ったテクノロジーの歴史的瞬間を──私はなんとしても理解したかった。

苦難の中から現れた「新世代の起業家」たち

 ペイパルの起源の物語は、書き甲斐があるが手強いテーマだ。まず手始めとして、このテーマについて語られたことや書かれたことをしらみつぶしに調べた。

 さいわい多くのペイパル出身者が活発に発言していた。本を書き、ポッドキャストを公開し、会議やテレビ、ラジオ、新聞、雑誌でペイパルについて語っていた。彼らの発言と、初期のペイパルについて書かれた数百本の記事、ペイパルを扱った本や学術論文に数百時間かけて目を通した。

 次に、上場以前からペイパルにいた社員に連絡を取り、数百人にインタビューした。ありがたいことに、共同創業者全員と、取締役と最初期の投資家の大半にインタビューできた。会社の技術顧問や、「ペイパル」の名付け親、ライバル企業の経営者など、部外者からも貴重な話を聞けた。

 寛大にもペイパルの最初期の社内資料、写真、記念品、数十万ページ分のメールをシェアしてくれた人々を含め、みなさんにこの場を借りて感謝を捧げる。

 これらの調査を通じて、これまで語られることのなかったペイパルの物語があらわになった。

 コンフィニティとX.comの合併話が難航し、決裂しかけたこと。ペイパルが重要な転機に何度も崩壊しかけたこと。ペイパルのインターネット技術が大混乱の中で生み出され、今日のインターネット環境をかたちづくるようになったいきさつ……。

 数年間の調査から浮かび上がったのは、野心と発明、試行錯誤の物語である。

 この苦難の時代が新世代の起業家たちを生んだ。彼らがのちに創り出していくものには、ペイパルの刻印がくっきりと押されている。

 だが最初の勝利──ペイパルの成功──は、簡単なものではなかった。ペイパルの物語とは、破綻寸前に次ぐ破綻寸前の展開が続く4年間の波乱の旅なのだ。

(本原稿は、ジミー・ソニ著『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』からの抜粋です)