主要国のインフレは、資源・穀物価格の上昇を契機として川上から川下へと物価上昇が波及していく形で加速していった。そこにはインフレ予想が介在する余地はない。「物価を決めるのはインフレ予想ではない」の後編では、物価の決定とインフレーションの発生についての理論的な変遷をたどり、物価を決定する真の要因を検証する。(日興リサーチセンター研究顧問 東京大学名誉教授 吉川 洋、日興リサーチセンター理事長 山口廣秀、日興リサーチセンター理事長室 前室長代理 阿部 將)
>>前編『日本が「インフレ経済」に転換した理由、物価を決めている要因は何か』から読む
第2次大戦前までの「物価」は
現在の1次産品と同様の市場で決まっていた
物価の変動、すなわちインフレーション、デフレーションは、どこの国、いつの時代にも大きな経済・社会問題となり、したがって同時代のエコノミストの分析対象となってきた。
最初に資本主義経済を生み出した英国では、早くも19世紀にトーマス・トゥックとウィリアム・ニューマーチにより「A History of Prices, and of the State of Circulation from 1792 to 1856」という浩瀚(こうかん)な書物が書かれた。第1巻が刊行されたのは1838年のことである。
ちなみに、この本の主題は、物価が貨幣数量とどのような関係にあるかである。トゥックは、当時の通貨論争における銀行学派の立場をとっていた。
以来、今日の「リフレ派」に至るまで、物価は貨幣数量で決まると考える貨幣数量説が一つの有力な学説として学界の中で支持されてきたが、銀行学派の立場を取るトゥックはそれを否定した。
21世紀に生きるわれわれは、19世紀はもちろんのこと、20世紀でも第2次大戦前の「物価」を問題にするときは、それが今日の消費者物価とはかなり性格を異にするものであることに注意しなければならない。
当時は、代表的な商品は比較的均一で、多くは卸売市場で取引されていた。そうした中には先物市場を伴うものもあり、小麦や石油など今日の一次産品の市場に近かった。ジョン・ヒックスが強調するように、アルフレッド・マーシャルが目にしていた物価、需要と供給の「部分均衡」のフレームワークで分析した物価は、このような市場で決まる卸売価格だったのである。
では、現在の物価は、何によって決まるのか。次ページ以降、理論の変遷をさらに振り返りつつ、実際の値上げの実例などを基に分析していく。