WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本を優勝に導き、メジャーリーグで日本人初のホームラン王になった大谷翔平。しかし、高校時代の大谷への全米からの評価は「打者としてはイマイチ」というものだった。高校時代の大谷の評価や知られざる裏話とは。アメリカの番記者であるサム・ブラム、ディラン・ヘルナンデスが、日本人記者の志村朋哉へ明かした。本稿は、サム・ブラム、ディラン・ヘルナンデス、志村朋哉『米番記者が見た大谷翔平 メジャー史上最高選手の実像』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。
米国は投手、日本は打者として
高校時代の大谷翔平を評価
志村朋哉(以下、トモヤ) 大谷翔平のことを初めて知ったのはいつだったか覚えてる?
ディラン 彼が高校生の時。(2012年7月19日の岩手大会準決勝で)投手として99マイル(160キロ)を記録した時だったと思う。その時、ロサンゼルスの地元球団のドジャースも獲得しようと狙っていた。それで大谷について取材するようになった。
その冬に行われたウインターミーティングでの出来事を今でも覚えているよ。ドジャース関係者たちと話していたら、「(大谷を)獲れると思う」と自信ありげに言っていたんだ。でも結局、大谷は日本でプレーすることを決めた。なぜ、そうなったのか噂が出回ったよ。ドジャース関係者の中には、「(大谷の家族が)日本ハムの工場でのデータ関係の仕事をもらった」なんていう憶測を立てて、獲得できなかった言い訳をする人もいた。真実ではなかったけど。
当時から、大谷の身長の高さや投げる球の速さをみて、「ちょっとこいつは違う」という印象だった。日本人選手は、スキルの高さに比べて肉体的強さで劣るというのが一般的なイメージだからね。大谷は正反対に見えた。投球コントロールは良くなくて、どちらかというとアメリカの若い選手のようだった。
当時、ドジャースは大谷を投手としてしか見ていなかった。プロでは打者はやらないだろうって。それに対して、日本の球団は、逆に打者として評価していた。打撃の方が投球よりも洗練されていたから。
サム 大谷についての最初の思い出は、メジャー球団による争奪戦だね。ほぼ全てのチームが参加しての。(あまりスター選手とは縁のない)ピッツバーグ・パイレーツでさえ、大谷にアピールしようと、熱のこもったプレゼンをしたくらいだから。
彼がエンゼルスと契約した時、多くの人が驚いたのを覚えているよ。単に「自分に合うと感じた」から選んだという以外の理由は語らなかったことも。
「二刀流」が可能と見る
メジャー球団は少なかった
トモヤ 大谷がメジャー挑戦を発表した時、アメリカのスポーツメディアは、これまでの日本人選手以上に大きく取り上げた。その理由はやはり二刀流だから。メジャーという舞台で、それが可能なのか。誰もが興味津々だったと思う。