高校野球の監督は、ときに自らの指導を見つめ直すきっかけに出会う。創志学園(岡山)の門馬敬治監督は、東海大相模(神奈川)の監督時代、同じ時を過ごした現巨人軍のエース・菅野智之の存在が転機になった。門馬監督が、菅野の「SOSサイン」を逃した後悔と以後の変化を明かす。※本稿は、朝日新聞スポーツ部『高校野球 名将の流儀:世界一の日本野球はこうして作られた』(朝日新書)のうち、門馬敬治監督の章の一部を抜粋・編集したものです。

「孫がいくから頼むぞ」と
菅野智之の指導を託される

菅野智之投手Photo:SANKEI

 私は東海大相模から東海大へ進み、卒業後は大学野球部のコーチをしていました。1995年に東海大相模に社会科の教諭として赴任し、野球部のコーチになります。そして1999年、監督に就きました。

 菅野智之が入学してきたのは、私が監督になって7年目です。智之は東海大相模野球部、東海大野球部を全国的な強豪にした原貢さんの孫で、大学、高校の先輩である原辰徳さん(巨人前監督)の甥です。

 原貢さんは、私が大学野球部のマネジャーだったときの監督です。当時、静岡県清水市であったキャンプに智之は遊びに来ていました。

 智之をあずかる。これは、特別な感情がありました。原貢さん、私は「オヤジさん」とお呼びするのですが、オヤジさんは私の師であり、道をつくってくれた方です。「孫がいくから頼むぞ」みたいな言葉をかけられましたが、非常に重たい言葉でしたね。

 東海大相模のエース、甲子園はもちろん、智之が長く野球をやるための、人生の土台を、私との3年間でつくる。おこがましいけれども、つくらせたい、という思いがありました。

「背番号1」の重みを教え
厳しい指導でエースに育てる

 投手としては、スライダーが抜群に良かった。ストレートもスライダー系で、少し曲がるような、カット気味の球でしたが、いいボールを投げていました。

 智之によく言ってたのは「逃げるな」です。2年春の関東大会、鷲宮(埼玉)戦で打たれて、2-7で負けたときも言いました。智之はスライダーを投げれば抑えられるんです。でも、1ランク、2ランク上の投手にするためには、直球とわかっていても空振りが取れる、打ち取れる投手にならないといけない。

 だから、「この試合は直球だけ」と投げさせたこともあります。当然、打たれます。でも、最初から切り札を出すような投手にはさせたくなかった。最後の最後、押し迫った一番の場面でスライダーを投げ込むために、その前の球を磨いていく。

「背番号1」を背負うということは、私は、何でも1番じゃないといけないと思っています。練習に取り組む姿勢、練習量。その1番をすべて集約したのが、「背番号1」です。