野球は投手の1球から始まります。そして、投手の支配率が高い。ならば、1番をつける人間が、全責任を負う。酷かもしれないけど、それくらいみんなが注目をする、仲間も頼る、それが「背番号1」の資格じゃないか、ということも智之には結構言いました。

 そして私は、智之たちの代が東海大相模の歴史を変える、新しいページをつくる代ではないか、という期待感を持っていました。当時の東海大相模は、選抜には出場していましたが、夏の甲子園には1977年の第59回大会を最後に出ていませんでした。

 高校野球は、投攻走守、技術的な部分はもちろんですが、それにプラスされる部分も多いのではないかと思っています。運やツキ、お客さんもそう。複合的な要素が、高校野球の場には大きく関わってくるだろうと。

 智之の代は、智之のお父さんも東海大相模野球部OBですが、他にもOBの息子が多くいました。原貢の野球を引き継いだ人間が多くいるときに、何かが起きるんじゃないか、という思いは強く持っていました。

疲労しきった菅野を決勝戦でも
「投げさせる」と原貢さんに告げた

 智之が3年生だった2007年の夏は、2年生投手の調子が良くなくて、智之に頼らざるを得ない試合が続きました。5回戦の川崎北との試合も競り合いになり、結局、智之を途中から出して170球くらい投げさせてしまいました。

 準決勝では横浜に勝ちました。夏の横浜スタジアムでのゲームは肉体的疲労はもちろん、精神的な疲労も重なります。その夜は眠れませんでした。決勝で智之を投げさせるか、投げさせないか。悩んでいるうちに、朝になりました。

 朝、学校のグラウンドで打撃練習をしていると、オヤジさん(原貢さん)がいらして。やっぱり、息子(原辰徳さん)で甲子園、孫で甲子園、というところも、なくはないじゃないですか。チャンスを目の前にして、オヤジさんもいろんな思いがあったと思うのです。

「どうするんだ」と聞かれたときに、「智之でいこうと思ってます」と伝えました。それで、私の思いの強さ、智之で、やっぱり智之は外せない、との考えが凝り固まってしまった。