阪神・淡路大震災により、当時オリックスが本拠としていた神戸は壊滅的な被害を受けた。球団関係者は当然のごとく代替地での試合開催を検討していたが、宮内義彦オーナーは、「神戸で試合をやり続ける」と厳命を下したという。その年、球団はパ・リーグ制覇を果たす。※本稿は、宮内義彦『諦めないオーナー プロ野球改革挑戦記』(日経BP)の一部を抜粋・編集したものです。
市民球団を襲った
阪神・淡路大震災
1995年1月17日。まだ日が出ていない早朝の5時46分に、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の巨大地震が発生しました。頻繁に地震が発生する東京と違ってほとんど地震がなく、備えが脆弱な関西地域を、直下型の激しい地震が襲ったのです。
実は私は、前日まで兵庫県にいたのです。神戸市立ポートアイランドスポーツセンターで、全日本フィギュアスケート選手権大会が15日まで開催されていたためです。私は兵庫県スケート連盟の会長をしていたので、地元開催の全国大会には顔を出さなくてはなりません。16日まで神戸に滞在して帰京していました。
未明に神戸を襲った大地震。当日は東京で、朝から政府の審議会に委員として参加していました。最初は「地震があったらしい」「死者が出たもようだ」くらいの情報しか入ってこなかった。そこから、徐々に被害の大きさが分かっていきます。被害を受けたと判明した場所が刻々と増え、伝えられる死者数も拡大していった。
私は、いても立ってもいられませんでした。パンや水などの救援物資を会社として準備。大阪本社が無事と分かったので、そこを中心に救援部隊をつくって対応しました。一刻も早く現地を訪れたかったのですが、電車も止まって交通が寸断されていることもあり、トップが混乱のど真ん中に行くとリスクがあると会社から止められました。
神戸を訪れることができたのは発生から1週間あまりたった頃。生まれ故郷でもある神戸の街が、がれきの山と化している光景に愕然としました。奇跡的に、球団関係者や親族に亡くなった方がいなかったのは不幸中の幸いです。
被災地を勇気付けるため
神戸でやり続ける「厳命」
球団の担当者からはこんな報告を受けました。「日本中の球場を当たって、主催試合ができるように頑張っています」と。
震源地に近いグリーンスタジアム神戸(現・ほっともっとフィールド神戸)を本拠地としていたオリックス。球団の担当者は、神戸では試合ができないという前提で動いていたようです。パ・リーグの担当者と、代替球場での試合開催を検討していました。
本拠地の最寄り駅である「総合運動公園」を通る神戸市営地下鉄の路線は、一部運行を再開していたものの、三宮や新神戸といった中核駅まではつながっていませんでした。阪急電車やJR、阪神電車といった地元の足も多くの場所で寸断され、運転再開のめどは立っていない。代替地での試合開催を考えるのは当然でした。