シーズン序盤こそ5割前後の成績でしたが、仰木マジックの下、チームの成績は徐々に上向いていきました。前年に新星のごとく現れたイチロー選手が2年連続首位打者となる活躍を見せ、前年に外野手に転向した田口壮選手も好成績を残しました。チームは6月に首位の座を奪うと、一気に2位以下を突き放したのです。

 オリックスが買収してからというもの、Aクラスこそキープしていましたが頂点には立てなかった。そのチームが、本拠地に大災害が起こった年に一丸となって、当初は諦めていた優勝に向かって突き進んでいる。オーナーというより、1人のファンとしてたまらないシーズンでした。

 シーズン終盤を迎え、いよいよ優勝が目前に迫ってきましたが、そこからが長かった。なかなか決まらなかったのです。

 神戸で優勝を決めてほしいと思いつつ、東京でも仕事が控えている。やっぱりオリックス初優勝の時には私も立ち会いたいし、球団としても「オーナーにいてもらわないと困る」という。でも、東京で毎日、仕事がある。

 ナイターの試合が終わる頃には、飛行機も飛んでいなければ新幹線も東京までは行かない。それでも連日、神戸で観戦しました。「負けて今日も優勝叶わず……」という失意に包まれながら夜行の寝台列車に乗って東京へ帰る日々が続きました。

 初優勝を現地で体感したい――。その願いは結局、叶いませんでした。インドネシアへの出張が控えていたのです。現地企業の周年パーティーがあり、私はホストとしてお客さまを呼ぶ立場でした。欠席するわけにはいきません。

 インドネシアに到着し、9月19日にパーティー会場で来場者にあいさつをしていたら、スッとメモを渡されました。「優勝しました」と。

 その日、オリックスは西武を下し、球団としては11度目、オリックスとしては初のパ・リーグ制覇を成し遂げました。翌日に急いで帰国し、試合があった埼玉県の所沢に直行しました。興奮しながら選手や球団職員の皆さんに「おめでとう」を伝えに行ったのですが、選手たちがみんな二日酔いでぼーっとしていたのを覚えています。本当は私も一緒に初優勝に酔いしれたかったのですが……。

 地元が大きな災害に見舞われた年に、「市民球団」を掲げるチームとして優勝できた。選手には感謝しかありませんでした。「がんばろうKOBE」というスローガンは、95年の新語流行語大賞にも選ばれるなど復興の象徴にもなりました。