自分の現状を正しく認識せず、他の人が勉強していたら自分も頑張る。そうでなければ「まだいいか」と思って誘惑に負ける。衝動やストレスをコントロールできない他責寄りの思考だ。

 反対に「インサイドアウト」の人は、自分の中にある「モノサシ」で自ら行動を選択する。

 当然「インサイドアウト」の人は、成果が出なければ自分の責任だと捉えやすい。自分がコントロールできることは何か、コントロールできないことは何かを見極め、コントロールできることに力を尽くす。

やらなすぎる部下に
必要なのはケタ違いの努力

 よりわかりやすいのは、「やりすぎ」か「やらなすぎ」かの切り口だ。

 熟練の人でない限り、「ちょうどいいバランス」にはならない。普通は、「やりすぎ」か「やらなすぎ」か、のどちらかになる。不慣れなときは、加減がわからないからだ。

 一例として報連相を取り上げてみよう。

 やりすぎの人は、たとえば上司から、「そんなことまで相談しろとは言っていない」「こんなに逐一、報告のためのメールをもらったら仕事に支障が出る」「努力は認めるけど、無駄な努力はやめろ」と注意される。

 主体的な人は、これぐらい「やりすぎ」だ。だから周りから指摘されて、ちょうどいい塩梅に落ち着く。

 上司の基準が〈100〉だったとしよう。しかし、やりすぎる人は、その基準をはるかに超えて〈300〉ぐらいやってしまう。だから上司が驚くのだ。

「そこまでやらなくっていいよ」と指摘を繰り返されることで、〈300〉から〈200〉、〈200〉から〈150〉、最終的に〈120〉ぐらいまで落とすだろう。上司の基準より少し多いが、「まあ、いいだろう」と受け止められる。

 一方、やらなすぎの人は、努力量が〈0〉に近い。〈10〉とか〈20〉なのだ。だから上司に「もっと主体的に報連相をしろよ」とハッパをかけられる。それでもせいぜい〈10〉を〈15〉ぐらいにしかアップできない。本人は1.5倍にまで増やしたので満足かもしれないが、上司の基準にはまったく届かない。

 何倍にしようが、もともとの母数が少なすぎるのだ。いくら頑張ってもその努力は認められない。