自分のモノサシで伝える等身大の違和感

開沼 Twitterを通して詩を届けていくことは、普段から詩壇を追いかけている「選球眼が定まっている500人の読者」を相手にする場合と、いろいろな点で違いがあるのではないでしょうか。「詩を読んでみよう」と思ったことすらない人も含む大量の目にさらされることは、ある面では、観客のそういった「素人」らしい情緒に流されすぎる側面もあるのかもしれません。

 僕自身はそうです。本来、ポピュラリティを意識しながら学問をすることなんて稀なケースであるはずなのに、そうならざるを得ませんでした。ただ、そうであるとしても、「学問の体系に基づいている」ということからは一切外れずにきています。和合さんにとって、震災前、そして震災後にTwitterで詩を書かれるようになってからも、変わらずに持ち続けている原則はなんですか?

和合 やっぱり美しさだと思います。言葉の美しさ、まずそれを求めます。さらに言えば、言葉の美しさと新しさ、それから深さ。それを求めることは変わらないと思います。

開沼 博 (かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

開沼 なるほど。

和合 美観と深度と新鮮さ。それは現代詩を書き続けているから備わっているのかもしれません。基本的に、詩人って読者がいてもいなくても詩を書くんですよ。例えば、作家であれば部数も問題になってきます。多くの場合、エンターテイメントも書いて、純文学も書いて、それで生計を立てているわけですよね。

 だけど、詩人はたとえ読者がたくさんいなくたって書き続けるわけです。僕はそれを20年間続けてきたので、コツコツ書き続けられたのかなと思います。前回の話につながりますけど、自分のために書くということ。自分がこの問題をわかりたいから書くということは一貫しているような気がします。

開沼 それは震災前も、震災後も不変であると。

和合 そうですね。ただ、Twitterにはお互いがキャッチボールをする関係があるので、つまらないものを書くとフォローが外れていったり、いいものを書くとフォローが増えていったりと、リアクションがすぐに現れます。「この言葉は響いたけど、この言葉は響かなかった」「これは自信があったけどダメだった」「これは意外な反応だったな」といったように。そうしたキャッチボールの関係のなかで、ともに呼吸している感覚が「詩の礫」にはあると思います。

開沼 相手とのキャッチボールをできるようになったが故に、それまでは生まれなかった葛藤、例えば「この感覚はなんで伝わらないんだろう」と思うことが増えたりはしませんか?ときには、自分が意図しなかった感動の仕方を相手が勝手にしている場合もあるかもしれません。

 和合さんがTwitterで詩を書かれることで、当然、福島から遠い土地で暮らす人にも瞬時にその言葉が届きます。そうやって、遠くの人、福島に居ることで抱く感覚とは異なる感覚の中で生活している人にも言葉が届き始めると、これまでにはない溝が生まれることもありそうです。つまり、送り手の感覚と受け手の感覚が必ずしも一致しないケースが出てくるんじゃないかと。

和合 それはすごくありますね。キャッチボールする良さを認めながら、あくまで自分の目で見る、自分のモノサシで感じたことを書くということを教えられているような気がします。有り体なことを言うと、等身大ということかな。
例えばそれは、行政レベルの問題を論じるということでも、文学論でもなく、今日交わした会話をそのまま書くことなのかもしれません。

『起承転転』の後半には除染の問題がたくさん登場しますが、どう考えても除染というのは違和感のある現場なんですよね。その違和感を自分なりに、自分のモノサシで伝えることをいつも考えます。それが福島で暮らしている人間の等身大なのかもしれません。いつも鮮度を持って伝えたいなと思っています。